ぐるぐる雑記

ぬーん

すべてが歪んで見える日

なんだろう、たまにあるんだけど、すべてが歪んで見える日。

街を歩く人の顔を見て吐きそうな気分になる。新宿駅で人の大群がごった返すなか、彼らの顔を見るとみんなひどく歪んで見える。

彼らの話す声音、言葉、すべてが腐っているように感じる。

いやだな、と思ってトイレに逃げる。トイレから出て、手を洗うと鏡に映る自分の顔が歪んでいるように見える。けれどわたしの歪みは、怯えに近い形をしている。

自分が歪んでいることを知っている。けれど純粋で美しいものに憧れている。自分の歪みが街を歩く人と同じものだと知る。自分はいつかもっと歪んで、汚い顔をして下品は言葉を吐くんだと確信をして、自分を滅亡させたくなる。

こんなもの。なぜ歪むことしか許されていないんだ。自分が全てにおいて醜くなっていく未来。わたしのすべてが、嫌悪する他者と同化する未来。助けてほしい。誰か、ここから出して。美しいものだけ見ていたい。

角田光代『愛してるなんていうわけないだろ』、生の中で生きるか。生と死の間で生きるか。

この前シティーガールな女友達と神保町で古本を見て周っていたらその子がこんなことを言った。「わたし最近女性の作家の本探してるの、川上弘美とか。フォロワーさんが、女性の作家さんの方が死とか生とかを実直に見つめてる感じがするって言ってて」
この子はツイッターで1000人以上フォロワーがいて、彼らの世界にどっぷりハマってるもんだから、そういう言われるとすぐ信じてしまうのが玉にキズなのだが。。しかしその一言を意識しながら最近ふ~んと本を読んでる。もともと私は女性作家をあまり読まない。なんかあんまり好きじゃない。
 
愛してるなんていうわけないだろ (中公文庫)

愛してるなんていうわけないだろ (中公文庫)

 

 

一昨日、角田光代の『愛してるなんていうわけないだろ』というエッセイを読んだ(ホントは、『ジョンレノン対火星人』とかそっちが読みたかったんだけどなかった)。角田光代が早稲田を卒業して、22・3才のときに書いたほとんど恋愛のエッセイ。9割恋愛話。素直にこの人の恋愛に対するパワーの大きさに感嘆。「わたしには常に好きな人がいるんだけれど」なんてどの話にも書いてあって「すげえ」の一言である。そんなに恋愛しててよく身が持つな、と思う。
で、この本を読む時にも友人の「女性は死や生を見ている」という友人の言葉があたまの隅にふわふわ〜していて、読みながら考えていた。。
 
わたしは読書家からは程遠い、暇つぶしで本をちょろっと読むだけの人間なので、女性作家の金字塔は誰それで〜〜なんてのはまったく分からない。最近読んだ女性作者は、角田光代川上未映子、村上紗耶香、小川洋子とか。これが偏ってるのかどうかわからないけどまあ。で、逆に最近読んだ男性作者、村上春樹村上龍穂村弘長田弘谷川俊太郎など。たぶんこれも偏ってる。
 
彼らの文章とか小説から漂う雰囲気をふふ〜んと頭の中で感じていると、むしろわたしの感覚は「女性は生と死を見つめている」とは逆の立ち位置で、女性は生の中で生きていて、男性は生と死の狭間で生きているんじゃないか、と思った。
 
池の上に最近通っている美容室があって、そこの美容師さん(男)がよく奥さんの話とかをしてくれる。わたしがお母さんから積立貯金をもらった話をすると、「女性は、子供のために貯金とかできるんだよ。でも男はちがうね、ある分だけ使っちゃうから。お母さん、他にも結婚資金とかあるかもよ」と言われふむふむ。
すごーーーーーく言い古された、「男は狩りへ出て、女は村を守る」、といういかにも(これを全体として捉えたら怒られそう)なフレーズをふと思い出した。
男は命の危険を犯してでも外へ出ていく。冒険家は男の人が多いし、冒険に命を落とす人も多い。危険と分かっていながらも、生と死の狭間でふたつに触れ合うという体験をなぜ犯すんだろうなんて女のわたしは思ってしまう。冒険にかぎらず、ギャンブルなんかも男の人が圧倒的にハマってるんじゃないだろうか。ギャンブル、行き過ぎるとロシアンルーレットを始めるんじゃないかとわたしはヒヤヒヤする。そこまでは行かなくとも、自分が持っている金なり物を危険に犯して一か八かという体験は、生死を薄めたすごーく希薄になった狩り的体験なんじゃないかなと思う。なぜそこまでして命をかけたがるのだろう・・・。
村上春樹(男)の作品には多く、あの世的なものが出てくる。途中までしか読んでいないけれど、騎士団長殺しだってなんだか小さなおっさんというか、幽霊めいたものが出て来る。村上龍(男)のなんかもうハードすぎて何も言えまい、象徴としての死とかではないハードなやつが結構出てくる。池澤夏樹(男)も孤独に生きて、旅に出たりする。
なんだか全体的に哀しいのだ。そこはかとなく漂う、なにかの匂い。
 
角田光代(女)のエッセイのあとがきには、「どの話にはかならずこの女の子は悲しいと言っている。こんなに楽しいのに、100%の楽しさはいつか終わると心のどこかでわかっているから」みたいなことが書いてあった。でも彼女のエッセイは、それが生きていく中で起こる、この世界から離脱しない範囲の中での悲しさだった。明日も続く、その人生の中から今ある100%の楽しみが消えていくのが悲しい、というのが角田光代が22才のときに感じた悲しさだった。
 
「男性は肉体的に強いが精神的には弱く、女性はその逆」というのはまた誰が言い出したかよくわからないけど通説であって、個人的にはわたしの周りの男性たちは本当にそうだと思う。友人はわたしの男友達たちを「生きることにセンシティブすぎる人たち」と言った。生きることにセンシティブというのは、100%の生の中で生きている人達には生まれないものだと思う。それは生と死が擦れる境目に立ってはじめて生まれてしまうものなんじゃないか。彼らはとても弱いがとても男性的だとわたしは思うし、とても愛おしく同時に悲しい。
生きることのマイナスみたいなものを考えるとき、わたしの中では女と男の両方を意識する。明日も延々とつづく生きるに対する「しんどさ」なのか、生と死の擦れる音に耳をそばだてる「哀しみ」なのか。「しんどい」と「哀しい」はお互いの一部を共有しながらも、全てを共有できないほどの距離がある。男性作家の本を読むと、生きることのしんどさよりも、生きることの哀しみを強く意識する。
女性の方が太く強く、男性の方が細く儚い。
しかしとても逆説的でアイロニカルなのは、男性はか細く脆いのに、それでも自らを生と死が擦れる場所へと行くことを止められないことだ。ある意味破滅的で自滅的。だから女はいつも男に惹かれ、男はいつも女に惹かれるんだろう。究極的に、ふたつは分かり合えない。
女性作家はたしかに「生と死を見つめる」ことができるかもしれないなと、もはや一周周って思いはじめた。死んだ者と向き合う必要があるのは、皮肉にも生きている者であること、それは死者を抱えたまま生きなければならないという運命に人があるということ。死者を自分の中で他者として扱うか、それとも死者を自らのうちに取り込んで自分の死と同化させ、近すぎる隣人として生きていくか。それが女と男の態度の違いのように思えるときもある。男は基本的にストイックすぎて、見ていてい痛々しいのに憧れてしまう。
 
ツイッターの人が言うように、女性が生と死を見つめる作品を書くことができるのなら、それは女性がその状況の中で耳を澄ましている男性とは違うからだと思う。女性が書くのは、他者としての生死であって自己のうちの生死ではないんじゃないか。
 
耳をすませば生と死が擦れる音が聞こえる場所に行ってみたいな、と思いつつ。でもこれは完全なるわたしの推測だから本当の男の世界というのは違うんだろう。
ひとつ言えることがあるとしたら、男と女が全て分かりあうのは不可能なんだろうなということ。女同士でも難しいからね。でも完全に分かり合えてもツマンナイよね。
 
 
 

是枝裕和『映画を撮りながら考えたこと』高橋哲哉『記憶のエチカ』とか

 読んでみたいな〜と思っていたら時間ができたので立ち読み。

映画を撮りながら考えたこと

映画を撮りながら考えたこと

 

 

「自分のことを語るのは嫌だけれど・・・」と言いながら、なんやかんや500頁くらいのやたら分厚い本。基本的には撮った映画を時系列的に並べて、そのときに考えていたことを是枝さんがつらつらと書くという本。

 

なんでこれを読もうかと思ったかと言うと、これまた違う本なのだけれど、高橋哲哉の『記憶のエチカ』という本を図書館でチラ読みしたのがきっかけ。

 

記憶のエチカ―戦争・哲学・アウシュヴィッツ

記憶のエチカ―戦争・哲学・アウシュヴィッツ

 

 「「記憶」は「和解」や「赦し」を可能にするのか。戦争の記憶を哲学はどのように語ることができるのか。出来事から出発し、出来事をめぐって哲学するとはいかなることか。(…)安易な「物語」への回収を許さない体験・証言と向き合い、戦争の記憶とその語られざる「声」に耳を傾ける思考のあり方を問う。歴史修正主義戦後責任歴史認識を考えるときの必読書。」

 

このちょっと重めの本の中で、是枝監督が初期に出した「ワンダフルライフ」という映画に触れる。演技ではなくナマの語りは引力が強いという話題。


「ワンダフルライフ」予告編

映画は、亡くなった人たちが天国に持っていく記憶を選ぶ話らしい。『記憶のエチカ』の中では、この映画で配役された、役者ではなく一般人の語りの強さに触れる。映画の中なのだけれど、一般人の出演者はセリフではなく、実際に生きてきた人生のなかから1番大切だと思う記憶を選んで話す。見てると、たしかに演技と実際はまったく違う。厚みが違う。どんなに演技の人がうまくとも、実際の体験としての話が持つ厚みには到底届かなかった。

 

これは余談なのだけれど、「生きることの厚み」がすごく滲み出ている絵を去年見た。あの有名なジクムント・フロイトの孫で、ルシアン・フロイト英国屈指の巨匠がいる。彼は自分の身のまわりのひとしか書かないのだけれど、ふだん一緒に生活しているからこそある観察力が絵から滲み出ていてすごい。それこそ、ここに書かれている「演技」なのに、「実物」ばりの生きてることの厚みが絵にある。

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東京ステーションギャラリーに展示されていた「少女の頭部」という作品。「どこが少女・・・?」と思うのだけれど、目の前に立つとまるでメデューサに睨まれたみたいに身動きがとれなくなってしまう。)

 

話もとに戻り、そのワンダフル・ライフをyoutubeでちょっと見たというのと(全編アップロードされている)、前にネットでこの本が出たときの作者インタビューで「学生はものを作るやつが偉いと思ってるけど、そうじゃなくて実際に生きてる人が1番偉いんだ」みたいな発言が載っていて、あー読みたいなと思っていたわけです。

まあそういうわけで『映画を撮りながら考えたこと』を読んでたら、「不在を抱えてどう生きるか」という章があった。たしかその章では「誰も知らない」という映画を取り上げていた。

「誰も知らない」はシングルマザーの母親に捨てられた子供4人が、暮らしながらもあるきっかけで兄妹を事故で殺してしまいそれを山奥に埋めてしまう話。結末がとくにあるわけではなく「暗い」と他のプロデューサーに言われながらも、変えずに撮りきったらしい。あたり前だけど生きるということは結末があるわけでもなく、ふわりふわりと前に進む。結末があるのは君の名はみたいな大箱カンドー映画だけなんじゃないかと思う。是枝監督の映画はいつも、少し前を向く、みたいなテンションがあって生きるだな〜と思う。

兄妹を間違えて殺してしまっても、母親が蒸発してしまっても、彼らは逃げずにひとつのところに住みつづけるのだという。人を殺したら逃げそうなのに。子供たちは母親の優しい思い出と、その場所で暮らした記憶があるから、そこを動かない。そのものはそこにいなくて、不在だけれど、そこで生きていく。

この映画をどこかで上映したとき?上映会を行ったとき?にその映画館の館長さんから吉野弘の「生命は」という詩を送られたという。「生命は / その中に欠如を抱いだき / それを他者から満たしてもらうのだ」。きっとあなたの映画のテーマにぴったりだから、と。

 

わたし自身、なんだか誰かの輪に入りたいよ〜と思いながら失敗し続けてきたな、と思った。他者から満たしてもらいたいのだけれど、それがうまくいかない。中学生からずっとそんな感じ。

ただ最近、卒論を進めていくうちに、そのテーマからどんどんと何かの輪に加えてもらっている感じがするのです。生きることとはなんだろう、自分のアイデンティティを社会に求められなかったらどうすればいいんだろう。当事者研究みたいなことをしているのだけれど、そのことによって自分の中の引っかかりがどんどん意識されていく。そうすると、いきなり読みたい本や見たい映画がわっ!と増えた。

今まで本も映画もなんだか好きだけれど、決定的に好きというわけではなかった。輪に入りたいけど入れない、輪の周りでとりあえずウロウロしている人だった。けれど、深く研究に関して考えると、どんどん世界がわたしに輪に加わっていいよ、と言ってくれる。読みたい本がつぎつぎ浮かんで、ひさしぶりに本屋さんがとても楽しい。

欠如を満たしてくれる相手というのは、必ずしも人じゃなくていい。わたしは人の輪がとても怖くて、対人関係がうまく結べない人だからこそ、誰かが書いた言葉や作品がわたしの欠如を少しでも満たしてくれるんじゃないか、そのための場所にやっと入れたんじゃないか、と。とてもうれしくて、生きることに前向きになれそうなここ最近なのです。

たくさん本が読みたい!詩を読みたい!映画を見たい!学問したい!

 

そんな気持ちになりました。

自分しかいない景色、灰野敬二、大瀬崎灯台

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灰野敬二、はじめて知ったのだけど、この曲がとても良いね。

 

「良い曲だな」と思う基準はそれぞれだと思うのだけど、そもそも基準なんかなくて胸にグッとくる曲が良い曲なんだけれど、わたしには良い曲を聴くと明確な想像上の景色が見えるようになる。それはたとえば、ピンク色の夕方の草原に風が吹く景色だったり、はたまた真夏に屋根の下から眺めるギラギラと輝くアスファルトの蜃気楼だったりする。実際に見たことのない明確な景色が、わーっと包んで溢れてくる。

この曲を聴くと、自分しかいない景色が見えてくる。人は誰もいなくて、自分だけがいる。大きく広がる空と、目の前には海があり、そして草原。

 

高校の卒業旅行のことを思い出した。行き先は長崎県だった。カトリック系の学校に通っていたから、長崎で隠れキリシタンたちがどれだけがんばって、それなのに原爆を落とされて自分たちがいかに辛かったか、乗り越えたか、という話をひたすら聞かされるという苦行みたいな修学旅行が恒例行事だった。

長崎に行ったついでに、五島列島にも寄る。長崎から高速フェリーで1時間ほどの、海と山と崖以外、ほとんど何もない島だった。けれどエメラルドグリーンの海はばかみたいに澄んでいて、当時高校生だった馬鹿な女学生たちは感動のあまり思わず体操着のまま海に入り、そのあと先生たちにビショビショの体育着のままこっぴどく怒られるのだった。古典的に廊下で正座。でも記憶に残ってるのって、案外そういう景色だったりするよね。馬鹿で、無知で、けれどもアホみたいになんでも飛び込んでしまうあの時代は、病的で、だからこそ輝いて見える。

五島列島にはとても大きな岬がある。大瀬崎灯台という東シナ海に面した超大型の灯台で、光が届く距離は日本屈指だと言う。

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ウィキペディアから借りた画像なのだけれど、遠い岬の先っちょにポツンと灯台が付いてるのが見える。なんとあの灯台にたどり着くまでには道路から1時間歩かなければならない。距離としては4キロメートルくらいだろうか?崖の高さも100メートルはあるだろう。

その日はすでに夕方で灯台まで行く時間もなく、道路周辺でバスから降りてウロウロしながら景色を眺める。

「あの海の向こうに中国があるんだよ」

バスガイドさんが教えてくれるも、残念だけれど微塵も見えなかった。見えたのは、金色に光る空と海。見える限り、全てが空と海。地球という星の、途方にくれるほど大きな質量を感じて少しぞっとした。遠くに見える巨大な崖の上に、ポツンと光る灯台も見えた。ゴマ粒みたいな灯台がひとつだけ。この巨大な東シナ海に面して、ただひとり海を渡る人々の安全のために一定のリズムで光続けていると思うと淋しい気持ちになった。

その灯台から崖を伝い、わたしたちがいる道路まで、緑色の草原が風になびき続けていた。まるでこっちは緑の海みたいに。

ポツンと光るゴマ粒みたいな灯台と、巨大な崖と、収まりきらない東シナ海の地平線。そしてその景色からは、修学旅行の同級生たちはみんな消えて、わたしだけになった。みんなの騒ぐ声も、姿も、消えて行く。聞こえるのは遠くで波が岩にぶつかる音と、海から吹いてくる強い風の音と、自分の口から出る息の音。わたしと、灯台と、東シナ海。淋しくて、でも美しい風景。

 

灰野敬二を聞いていたら、そんなことまで思い出してしまって夜も眠れなくなった!この!

 

ももう一度行きたいなあ、大瀬崎灯台。地球にロマンと、恐怖を感じられる端っこの島です。

逃げて他人を馬鹿にして、キャッチャー・イン・ザ・ライ

辛いことがあって、どうしても逃げたい。今、ここ、そのさなかでは何も考えられない。どこかへ旅へ出たい。。

ああああ逃げたい!と考えていたら、思い出したのはサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。高校生のときにたまたま本屋で手に入れて、去年再読した。

 

逃げて他人をコケ落とし更に逃げまくる、でもそれは本当に望んでいることかと言われると違う。

 

キャッチャー・イン・ザ・ライについてみんなは何を思ったんだろうと、ネットをサーフィンしてみると、この本が爆発的に売れた発売当時の時代背景に多くの人が触れていた。大学闘争時代、社会に反抗する若者の象徴として、彼らの心を支え、共感を生んだんだ、と。うーん、なるほど。。

余談なのだけど、いろいろあって捻くれた小学生Aくんとよく話す。小学校中学年の男の子で、彼はいろんなものを馬鹿にして、自分を天才だとひけらかす。

「僕は1年生のころたくさん本を読んだ、難しい言葉もたくさん話せた。でも同級生は誰も僕の言ってることが分からない。だから僕は辞書を読んだ。」とか関心するようなエピソードがあったりする。あとは、「学校の先生は馬鹿、ひとりの子が算数の展開図わかんないと、全員の時間使ってその展開図解説するんだよ?時間の無駄だよ、あんなのほっときゃいんだよ。」と言うくせに、ある進学塾ではクラスで1番問題が解けず、トンチンカンになり文句をつけてそこを辞めたらしい。

Aくんは家庭環境が複雑で、家族の関係がよくわかならい。引っ越しも恐ろしい回数している。彼が誇りにしていることは、自分は世間的にできる子で、賞賛に値するということ。

でも、本当は、自分ができないことを自覚している。自分が淋しい思いをしていることも自覚している。そんな自覚が、彼を真逆の方向の言動に走らせているんだ、とわたしは思う。認めると自分のことを否定してしまうから、せめて言葉の上では自分を認めていたいんじゃないのかな。真剣に取り合わないで、ひとりで喋らせておくと徐々に元気がなくなって、でも一通り放出すると素直になっていくA君は、まだ今なら捻くれきらずになんとか素直になれるのに、と思う。

 

話戻ってキャッチャー・イン・ザ・ライだけれど、ホールデンの反抗や逃亡は、決して社会に対するものではないとわたしは思ってる。他人に文句を言い続けているけれど、でもその原因は他人じゃなくて自分の中の虚無感や焦燥感や、何か、埋まらない真っ黒い穴のせいなんじゃないか、と。だから他人を馬鹿にして、どんなに逃げたって、何一つ解決しやしない。何一つ対抗になんかなってない。彼は自分の心の穴に引きずり込まれないように、なんだか怯えているみたい。

 

あー再読してから続きを書こう。なぜか主人公が電車に乗って変なおばさんに絡まれるシーンをふと思い出して、読んでみたくなった。

 

まあ何が言いたいかって、旅に出たからって物事が解決するわけじゃない。分かる、わたしからは逃げられない。そうなんだけど、わかってるんだけど、状況の内側にいる限り頭が爆発しそうだから、せめてこの状況から抜け出して、当事者ではなく異邦人になりきって、どこでもいいから繋がりを持たずに無責任な立場になることが必要なんだ。無責任な異邦人になって、あらゆる繋がりを自分から取り除いてはじめて、やっと心の黒い穴をそっと覗くことができる気がする。

 

おーい。そこは暗いかい。

 

打ち上げられたブログ

読む人がいないけどブログを書くのって楽しいよね。孤独な星の唯一の住人になった気分。宇宙に向かって、ひたすら信号を送りつづける。

まあどうせすぐに飽きてやめることも目に見えてるんだけれど。それでも打ち上げられた流木みたいな(社会学者の岸政彦の言葉)ブログの残骸を見るのも、悪くないよね。

 

中学生のころに、やたら携帯サイトが流行った。今からちょうど10年くらい前。あの頃はガラケー全盛期で、ツイッターフェイスブックもなくて、あるとすればミクシィ。でもそれもやらずに、自分でHTML組み立てて携帯サイト作ってた。仲良い友達がやってたからってのと、その子のことを執拗なまでに知りたかったからなんだけれど、でも案外ハマってしまった。

どのサイトにもお気に入りの別サイトへの「リンク」をまとめたリンクページがあったりして、そこから飛んで、違うサイトへ行くのがとても楽しかった。どのサイトも、だいたい閑古鳥鳴いてて、でもそれは最初に書いたような、孤独な星の唯一の住人たちが静かに送る宇宙への信号感があった。

繋がろうと思えばミクシィとかで繋がれたけれど、やはりそれは居心地の悪い場所だった気がする。同じ部屋にみんな突っ込まれた感じ。携帯サイトはもっと、わたしだけの場所だった。他のサイトのデザインがよければ、その素材元のサイトに飛んで、素材をゲットして、自分のサイトを模様替えして、素材サイトのURLを貼った。みんな今なんかよりずっと、著作権をきちんと守っていた気がした。転載元を書いて、違う場所へ飛ぶリンクを作ることは、同じ太陽系の仲間同士をつなぐゆる〜いネットワークのひとつだったんだと思う。ゆるやかなルールが、孤独な星を太陽系の一部として迎えいれてくれた。

昔使っていたidとかをたまにググってみる。難破船みたいにほったらかされた、中学生のわたしの言葉が、あのときと変わらない装いで出てくる。変なの、時を超えて、年を取るのはわたしだけね。ネットに取り残されたあの頃のわたしの言葉は、劣化することなく、けれど誰にも見られることなく、ただそこにあり続けてる。

もう削除するためのパスワードも何もわからない。そういう、やりかけのものたちがなくならないでほぼ永遠に保存されていると思うと、ネットはとても寂しいものな気がしてしまうよ。地球の周りを回り続けた、ライカ犬みたいに。

ララランド、つまララランド

観ました、ララランド。正確には観切ってない、退屈なもんで途中で映画館を飛び出してしまった。

映画好きの友達に「ララランド観たつまらなかった」と連絡すると「どうしてああなった、逆に笑えた」と。だよね。信頼できるのは、身近な人の意見。

 

話変わって、アマゾンプライムで、ティファニーで朝食を、を観た。オードリー・ヘップバーンのやつ。今までタイトルとヘップバーンの華やかな格好から、ハイソサエティな女性がティファニーでナンヤカンヤで男女がララランドかと思って手を伸ばさなかったんだけれど。夜に眠れなくて本も読みたくなくて、良い機会だから観てみたら、話全然違うし(失礼)、素晴らしい映画なんだね(何様)。すごい今更感あるけれどさ。40年くらい時差あるけどさ。

ララランドが40年後にまた見返されるかと言われると微妙なんじゃないかなと思っちゃう。アマゾンプライム6プラスとか40年後に出来たとしても、そこにあるのは今と変わらない、戦後すぐの時代の、銀幕の映画だったりしてね。

 

カポーティの原作を読みたいなあと思った。ねえこれはつまらない疑問かもしれないけれど、カポーティの時代の人たちの方が生きることの辛さや切なさを知っている気がするのは気のせいなのかな。形を変えて、今も探せば見つかるかな。

 

再度思うけれど、ララランド、観る人を馬鹿にしてんじゃないかなと思っちゃった。最後まで観てないわたしが映画を馬鹿にすることが一番馬鹿にしてるんだろうが。分かりやすいって、馬鹿にされてる気がするね。そういや村上春樹がなんかの話で、「自分の仕事はひとりひとりの魂に尊厳の光を当てることだ」って言ってたけど、ほんとに偉いなと思う。欲求から来る芸術は独りよがりでしかないって、偉い人が言ってたけど、ララランドを見る限り本当にそうなのかもね。芸術や文学の最たる目的は、村上春樹の言うような、個人の魂に光を当てる、それなのかもしれないと思う。じゃないとそれらがひろく、誰かを救うことなんかできないじゃないの。

ララランドは、独りよがりというか、アカデミー会員よがりに見えてしまったなあ。人が生きる上で、何かの助けになる映画には見えないや。消費する娯楽程度のものなんだろう。

何はともあれ、時間とお金が惜しかった。チッ。