ぐるぐる雑記

読んだり観たりすると感想が出る。うんちと一緒だね。

谷川俊太郎『ひとり暮らし』、ひとり暮らししたい。

ひとり暮らしをしたくてしたくて、『ひとり暮らし』という本を読んでみた。谷川俊太郎は、中学生の頃だいすきだった友達が気に入って読んでいたので、なんとなくずるずると10年近く読み続けている。
2009年に書かれた本だから、最近の詩のごとく柔らかくて温かい雰囲気を持ってるのかと思いきや、すこし冷笑的で意外にも世界に対してちょっと冷たい。まあでもそんなもんか、と思う。デビューの頃の作品は、自分の殻に篭っていて冷たくて、でもそんな空気が、世界に馴染めなくて孤独を感じているときにとてもしみる。

この本の中の「恋は大袈裟」というエッセイは、谷川俊太郎が恋を通して、母・他者・宇宙を求め、少なくともそれらの一片には触れることができる、みたいなことを言ってんじゃないかなあ、と思う。

「私の初めての恋の詩のひとつに「…私は人を呼ぶ/すると世界がふり向く/そして私がいなくなる」という行がある。他のどんな人間関係にもまして恋はエゴイズムをあらわにするが、同時にそれは個を超えて人を限りない世界へと導く。その喜びと寄る辺なさに恋の味わいがあるる。人は経験によって、また想像力の限りをつくして、それをことばにしてきた。
ひとつのからだ・心は、もうひとつのからだ・心なしでは生きていけない。その煩わしさに堪えかねて、昔から多くの人々が荒野に逃れ、寺院に隠れたが、幸いなことにそんな努力も人類を根絶やしにするほどの力はもてなかった。」

…個を超えたところにある、喜びと寄る辺なさ。
近づくほどに遠くなるもの、それは恋人の心。近づけば近づくほど、どんどん遠ざかる。ふたりでいることは、ひとりひとりが際立つこと。どんなに求めても、絶対に分かりあえることなどあり得ない。恋の寄る辺なさって、きっとこういうこと。
周りのひとのことを知れば知るほど、わたしは世界から孤立していく気がする。本を読めば読むほど、自分が孤独になり、渇いていく。知れば知るほど、世界は相対的に広くなっていき、わたしは相対的に縮んで小さくなっていく。英語なら、shrinkがいちばんふさわしい。

なんでひとり暮らしをしたくてしたくてしょうがないかと言うと、わたしの持つ世界ひとつひとつがバラバラにわたしを引き裂こうとしていくようか気がして、なにかひとつの力の上でそれらを維持しないと、本当にバラバラになって自分が崩壊しそうだから。
家族、恋人、友達。人間関係のそれぞれの世界がひとつひとつが断絶してわたしの中に存在して、それぞれの世界がそれぞれの関わり方を持っている。もしくは求めてくる。そうなるとわたしをいま支える基盤となる世界がない。家にいても、わたしは家族という世界と関わり、振る舞いを求められる。わたしを形成する空間がいま必要で、わたしはひとりの時間を欲している。それを持ったうえで、誰かの世界に関わらないと、わたしは求められる世界に毎回形を変えることで自分をどんどん分裂させていってしまう。わたしはそれぞれの世界によって引き裂かれる、そんな予感が不穏にもしてしまう。
人と関係を持つことで感じる無限の寄る辺なさを支える自分が必要で、それはひとりの、本当にひとりの時間を確固として持つことによって、すこしは得られるんだと、いまのわたしは信じてやまない。
もうひとつのからだ・心に関わるには、まず自分のからだ・心を確かめないと、うまくやれない、そういう硬くて柔軟性のない、わたしという存在に嫌気がさしてさしてしょうがない。

くるまのこと(ボロすぎるプジョー)

 

わたしは運転が好き。大学生の女子にしてはまあまあ珍しいんじゃないかと思う。ちなみに技術的にはとても下手だ。

なんで好きになったんだろうかと考えると、まず、車社会に暮らしているので運転の必要があることで必然的に車に触れるというのが前提にある。たまに大学にも車で行ったりしている。つぎに運転の楽しいオープンカーが2台家にあるおかげで、電車移動なんかより車で気持ちよく移動したいと思っている。実際には4台車があってどれも個性がある。トヨタの中型車と小型車、プジョーのオープンカー、シトロエンのオープンカー。

この中でも、プジョーのオープンカーが特にお気に入りだ。このオープンカー、長らくドイツに転勤したまま帰ってこない父親の友人からの貰い物で(ほんとにタダ)、やたらボロい。見た目も最近の高性能ぽいプジョーからは遠いし、かと言って一昔前のかわいいロゴが入ったレトロな車でもない。ただめっちゃボロい。20年位前のモデルで、色はプジョー的深い青。砂漠に行ったら映えるようなタイプの青だ。プジョーの青はとても素敵で、この車は見た目だけはとてもかわいい。問題は性能だ。

まず、後部座席の左側の窓がたまにしか上がらない。開けてしまうと最後、手で引っ張りながら閉めるボタンを押してやっとこさ閉まる。時たま閉まらないのでそのまま放置する。雨が降ると天気予報で見れば、20分くらい格闘しながら閉める。

さらに、トランクについていたプジョーのマークが、ある日トランクをバシンと閉めた衝撃でポロッと取れた。「・・・・」である。しばらく銀のマークは座席のポケットにしまわれていたが、マークが取れた痕があまりにも不格好すぎるので、ひとつきほどしてアロンアルファでくっつけた。

さらにさらに、たまにエンジンがつかない。一度なんか銀座のアップルの立体駐車場でエンジンがつかなくなった。焦る。後ろには駐車場に入りたい超高級そうなアウディーが、すごく迷惑そうにして待っている。キーをひねっても虚しい音だけが響いて一向にエンジンがかかる気配がない。焦った父親はボンネットを開けて、エンジンとキーの接続部分をスパナでガンガン叩く。なんとエンジンがかかった。そんなんでかかるのか。それ以来、エンジンがかからないと「またか」だし、かからなければかからないでボンネットを開けてエンジンの金具を叩けばいいから大丈夫、と謎の余裕を身に着けた。ちょっとやそっとではもう動揺しない。これがボロい車から得られるアクシデント耐性だ(全然ありがたくない)。

そんなプジョーだけれど、「フランス車の愛嬌ってかんじだよね」とか思っちゃう自分がいて怖い。これは個性これは個性、いや違う、故障だよ明らかに。

しかし最近、トヨタプリウスを借りて運転したり、家にあたらしくシトロエンのDSという車がやってきたりして、いわゆる優等生的な車を運転する機会があってわたしはなんだか落胆している。まず最近の優等生車は、ハイブリッドなのだ。アクセルを踏むと、エンジン以外にエレクトロニックな何かしらのちからを感じる。なんと不純な。エンジンひとつがアナログにがんばるあのアクセルの踏み心地と加速具合が好きなわたしからすると、とても不純に感じる。さらに、壊れない。まったくもって壊れない。すごい。ていうか癖もあんまりない。これは良いことのはずなんだけれど、いや良いことだよ、なのに車に性格がない感じがしてなんだかがっくりしてしまう。

ここまで来るともはやプジョーが恋しい。窓は閉まらないし、マークは取れるし、エンジンが50%の確立でかからないんだけど、プジョーが恋しい。やたらキャラの濃い友達に悩まされていやいや付き合ってたくせに、後年になると思い出してまた味わってしまいたくなるタイプだ。完全にハマってしまっている。

そんなボロプジョーは毎年修理に出さなければ乗れず、毎回の修理でだいたい20万円ずつ吸い取っていく。今も近所の知り合いの修理工場でこつこつ直されて、ゴールデンウィーク明けに帰ってくるのを待っているところだ。しかし毎回修理屋さんに脅されるのは、部品がもう日本にはないこと。彼はボロボロなのに、直してあげることができない。悲しい。

ボロプジョーはアクセルを踏み込むと、2段階で加速してぐいっ、ぐいっとわたしを前に引っ張ってくれる。ハンドルがやたら重い(シトロエンの5倍は重い、はじめて運転したときは筋肉痛になった)けれど、それは車輪を動かしている感覚がすごくする。なんというか、わたしが操作しているぞというのが直接伝わってくる、とても良い車なのだ。だけれど最近の車は、なんだかバーチャル・リアリティみたいな運転の心地がして、あんまりおもしろくない。そういう車が増えていって、ボロい車の部品はどんどんなくなっていくと思うとすごく悲しい。お金も手もかかるけれど、とても良い奴なんだよ・・・。

 

最近は、マツダのユーノスロードスターが気になっている。最新モデルのロードスターもかっこいいのだけれど、色が・・・。わたしはユーノス時代の、あのモスグリーンが大好きなのです!ドイツの深く湿った森を思わせるあのグリーンは掛け値なしに素敵。でも残念。最近マツダは赤に凝ってて、緑なんてのは出してくれないのね。

いつか、大人になったらボロいユーノスロードスターを手に入れて、燃費の悪さとボロさを嘆きながら運転したいと思っています。効率化や、便利さが必ずしも喜びには繋がらないと、車のことを思うとしみじみと感じてしまう、そんな女子大生はちょっとウザいね。

f:id:xxuiko:20170507003933j:plain(憧れのユーノス!あれ、青だ)

f:id:xxuiko:20170507003923j:plain(ボロプジョーと同車種)

屋根の上にのぼってきゅうりをかじること

ほぼ日刊イトイ新聞の今日のダーリンでこんなことが書かれていた。
世間的に、繊細さというのは良く取られ、鈍感さというのは悪くとられがちだ、と糸井さん。
ただ、ぼくは、鈍なほうに鈍なほうに歩んでいこうと、
 練習を続けてきたように思います。
 どう言えばいいんだろう、つまり、
 センサー感度高いのも、わるいわけじゃないけど、
 「感じることそのものよりも、
 なにかすることが目的なんだからさ」と思ったのです。
 感じたことを物語にして表現するにしても、
 「表現する」ということを「する」わけですよね。
 そこには、感じたことを切ったり削いだりするという、
 ある種の暴力的な決断が要ると思うんですね。
 どこまでも繊細に感じ続けていても、
 それをいったん止めて「なにかする」のでなくては、
 ただの線の切れたセンサーになってしまいます。
 どうしても、そこでは鈍にならざるを得ないでしょう。
タフだ〜と思った。そしてわたしはこれにすごい憧れてしまった。
 
村上春樹1973年のピンボールで主人公は「僕は楽観的な人間だ。けれど頭は悪くない。逆よりマシだと思うけれど」みたいなことを言う。村上春樹の小説の主人公はいつもこのテンションだ、根本的に楽観的な人間。でもこれを読みながらわたしはいつも、自分は真逆の人間だと思ってしまう。悲観的な馬鹿。最悪の組み合わせ。
わたしの周りの友達を見ていると、彼らは寄ってたかって楽観的か悲観的だが頭が良い人ばかり。彼らは彼らなりに傷ついてタフにならざるをえない経験をしてきた。元はとても繊細だけれど、でもとてつもないタフさを身につけた。きっと頭がいい彼らは傷ついたことから学ぶことができる。けれどわたしは傷ついたことから何も学べない。ただ傷つく、傷つく、の繰り返し。これは本当に、根本的な馬鹿だ。救いがなさすぎて、自分が疲弊することが目に見える。
生きていくことは辛いことだ。傷つくことばかり。春というだけで気持ちが鬱になる。だからそんな世界で生きるには何か武器か盾を持つべきなのだ。たとえばそれは趣味とか。
前に付き合っていた彼は、本当に繊細な人間だった。一緒にいるとこっちまで生きるのが2倍くらい辛くなってきて、どうしようもなくなって別れた。彼は、美しさに固執する人間だった。全ての趣向に一貫するものがあり、革靴をこよなく愛し、ブルックスブラザーズに身を包んで紳士であるという法則の環境の中に自分を置き、自分を守っていた。彼が身の回りの全ての物事を、自分の秩序で整理していこうとする姿を見ていると、これが生きづらさから来る性格なのだろうと思った。そうでもしないと自分を守れないんだろう、と。
昨日の夜に自分が無趣味であることが辛くなってきた。そして自分がなんてつまらない人間で、この世に存在する価値が与えられていないと自分を責め続けた。基本的にわたしは自分が信用できない。
 
朝起きて、まず水を飲んで次に野菜ジュースを飲んで、コーヒーをいれた。それから父親に炊きたてのお米を蒸すために一度サランラップに全部包めと言われ、炊きたてのお米5合を拳2つ分ずつくらいをまとめてサランラップに乗せ、手で少しだけ形を整えて、包んだ。それを7個くらい作りながら、ビル・エバンスのSunday at the villege vanguardを聴いていた。今日は良い天気で、気温も温かくて、しかも風が心地よかったので、窓を開けて、トマトのサラダを作ってそれをつまみながらお米を包んだ。
ぼんやりとイトイ新聞の鈍感さについて考えていた。たぶんタフさがないことは、致命的な人生の設計ミスなのだろうと。でも今からタフさを得ようと思っても、わたしにはきっと無理だ、遅いし、そういう人間ではない。
ビル・エバンスとトマトサラダと春の風は、わたしのこころをとても軽やかにした。少なくとも、鬱々として自分を責めることを一瞬でもやめることができた。そういう気持ちというのはやっぱりなくなることはない。人生は苦しみの塊で、楽しみや嬉しさというのはご褒美なんだと仏教の教えにあるように、やはりマイナスの感情は生きることと表裏一体で、それはアルミホイルの裏と表をばらばらに剥がせないほどくっついている。問題は、とお米を包みながら思った。どうやってそれに押しつぶされないで生きていくか、なのだと思う。
けれど、と思う。今のこの瞬間だけは自分を責めていない。春の風とトマトサラダと爽やかな空気がわたしを包んでいて、わたしは何も憎んでいない。わたしはこういう、世界も自分も他人も憎まない瞬間を自分が感じられていることに嬉しくなった。爽やか、ということばがこういうわたしの気持ちを表すのに適当であるかはわからない。けれど、爽やかな世界というものを一定的に持つべきだ、という義務感が自分の中に生まれた。でもそれは表面的であったり、アイコン的であったりしてはいけない。根本的な爽やかさを、自分の内側のある一部分に作り上げること。それは、風の気持ちよさを忘れないことや、トマトの美味しさを感じること、音楽の素晴らしさに自分を委ねること。炭酸水の泡の音を聴くこと、屋根に登ってきゅうりをかじること。全て、心地よいと思ったときにしてきたことを忘れないこと。世界を自分の中に持っておくこと。
そういう確かな世界をひとつ心に作り上げれば(しかしそれには努力も必要)、わたしは少しだけ自分を責めることを辞められて、世界との接点に居場所を作ることができる。爽やかさに包まれたとき、世界がとても穏やかで美しいものに溢れているように見えるから。
でも誤解すべきでないのは、生きることは辛いことで溢れているという姿勢を忘れないこと。でないと、何かを勘違いしてしまって、また同じ繰り返しを何度もしてしまう。春の鬱に自分を沈めて、世界と自分を憎むことしかしなくなってしまう。
イトイさん、わたし鈍感さはまだ手に入れられるかまだ分からないけれど、ひとつの世界を自分の中に作っていこうと、イトイさんの記事を読んでちょっと思ったよ。生きることを、それでもしないといけないんだとはやっぱり思わなきゃいけないから。

『ムーンライト』がつまらなかった…

お題「最近見た映画」

1ヶ月以上前に、アカデミー賞の最有力候補とかなんやらでタイ語字幕のララランドを見たらつまんないのなんので開始40分で映画館を出てしまった。そのとき、「ララランドみたいなイチ候補なんかじゃなくて、最優秀賞だったムーンライトは絶対おもしろい…あきらめんなわたし…」と強く願い、ついに見ましたムーンライト。


アカデミー賞候補作!『ムーンライト』本国予告編

 

「え、めっちゃつまんない。」

 

えええ。こんなに囃し立てられといて?いやいや納得いかないわ。ていうか正規料金の1500円(学生)払っちゃったよ。

…で、わたしなりになんでつまんなかったのか映画中に考えたんですが。

1.主題がわかりにくい

まず、母との関係っていうのがひとつ。次に、ゲイ体験を引きずることがひとつ。いやいや、主題2つとか辛いでしょ。ぼやけてます主題が。どっちかに絞った方がいいよ。しかも2つの主題が対してお互いに関係しあってない。独立した2つの話がぽろぽろとあっちこっちに散らばってて、映画的に流れがない。

2.人間ってこんな単純だっけ?

わかる、センチメンタルな言葉が大切なのはわかる。雰囲気って大事だもんね。でも、人間って「ごめんね」って言われて「いいよ」ってすぐ立ち直るような単純な存在だったっけ?言葉のやりとりはすごーく分かるんだけど、でも感情の動きが全然見えない。赦しまでの人間の葛藤が見えない。センチメンタルな映画なのに、人間の感情の動きが何からも汲み取れないよ。。

 

以上のふたつを踏まえまして、映画とはエンターテインメントだということをどうしても考えてしまう。一緒にいた人が、「クリント・イーストウッドだとどんなに重い内容も引き込んで最後まで見せてくれるのに」と言ってました。テーマの重要性も去ることながら、映画ってまず魅せてくれないと観れない、そうすると否応無しに1500円分の地獄がやってくる。もしくは120分の地獄。

そうするともう自己嫌悪。なんでこれに1500円も払っちゃったかな?アマゾンかwowowか地上波でよくなかったかな、とか色々考えてしまう。

表現は大事だよ、わかる。画のきれいさも大事、わかるわかる。でも魅せる技術が欲しかった。だって映画じゃんか。観客を引き連れていってほしかったんだけどなあ。

 

しかし、今回のアカデミー賞は「・・・?」な感じ。ていうか最近あんまりおもしろい映画に出会えないね。

もう信じられるのはアマゾンプライムだけだよ。

すべてが歪んで見える日

なんだろう、たまにあるんだけど、すべてが歪んで見える日。

街を歩く人の顔を見て吐きそうな気分になる。新宿駅で人の大群がごった返すなか、彼らの顔を見るとみんなひどく歪んで見える。

彼らの話す声音、言葉、すべてが腐っているように感じる。

いやだな、と思ってトイレに逃げる。トイレから出て、手を洗うと鏡に映る自分の顔が歪んでいるように見える。けれどわたしの歪みは、怯えに近い形をしている。

自分が歪んでいることを知っている。けれど純粋で美しいものに憧れている。自分の歪みが街を歩く人と同じものだと知る。自分はいつかもっと歪んで、汚い顔をして下品は言葉を吐くんだと確信をして、自分を滅亡させたくなる。

こんなもの。なぜ歪むことしか許されていないんだ。自分が全てにおいて醜くなっていく未来。わたしのすべてが、嫌悪する他者と同化する未来。助けてほしい。誰か、ここから出して。美しいものだけ見ていたい。

角田光代『愛してるなんていうわけないだろ』、生の中で生きるか。生と死の間で生きるか。

この前シティーガールな女友達と神保町で古本を見て周っていたらその子がこんなことを言った。「わたし最近女性の作家の本探してるの、川上弘美とか。フォロワーさんが、女性の作家さんの方が死とか生とかを実直に見つめてる感じがするって言ってて」
この子はツイッターで1000人以上フォロワーがいて、彼らの世界にどっぷりハマってるもんだから、そういう言われるとすぐ信じてしまうのが玉にキズなのだが。。しかしその一言を意識しながら最近ふ~んと本を読んでる。もともと私は女性作家をあまり読まない。なんかあんまり好きじゃない。
 
愛してるなんていうわけないだろ (中公文庫)

愛してるなんていうわけないだろ (中公文庫)

 

 

一昨日、角田光代の『愛してるなんていうわけないだろ』というエッセイを読んだ(ホントは、『ジョンレノン対火星人』とかそっちが読みたかったんだけどなかった)。角田光代が早稲田を卒業して、22・3才のときに書いたほとんど恋愛のエッセイ。9割恋愛話。素直にこの人の恋愛に対するパワーの大きさに感嘆。「わたしには常に好きな人がいるんだけれど」なんてどの話にも書いてあって「すげえ」の一言である。そんなに恋愛しててよく身が持つな、と思う。
で、この本を読む時にも友人の「女性は死や生を見ている」という友人の言葉があたまの隅にふわふわ〜していて、読みながら考えていた。。
 
わたしは読書家からは程遠い、暇つぶしで本をちょろっと読むだけの人間なので、女性作家の金字塔は誰それで〜〜なんてのはまったく分からない。最近読んだ女性作者は、角田光代川上未映子、村上紗耶香、小川洋子とか。これが偏ってるのかどうかわからないけどまあ。で、逆に最近読んだ男性作者、村上春樹村上龍穂村弘長田弘谷川俊太郎など。たぶんこれも偏ってる。
 
彼らの文章とか小説から漂う雰囲気をふふ〜んと頭の中で感じていると、むしろわたしの感覚は「女性は生と死を見つめている」とは逆の立ち位置で、女性は生の中で生きていて、男性は生と死の狭間で生きているんじゃないか、と思った。
 
池の上に最近通っている美容室があって、そこの美容師さん(男)がよく奥さんの話とかをしてくれる。わたしがお母さんから積立貯金をもらった話をすると、「女性は、子供のために貯金とかできるんだよ。でも男はちがうね、ある分だけ使っちゃうから。お母さん、他にも結婚資金とかあるかもよ」と言われふむふむ。
すごーーーーーく言い古された、「男は狩りへ出て、女は村を守る」、といういかにも(これを全体として捉えたら怒られそう)なフレーズをふと思い出した。
男は命の危険を犯してでも外へ出ていく。冒険家は男の人が多いし、冒険に命を落とす人も多い。危険と分かっていながらも、生と死の狭間でふたつに触れ合うという体験をなぜ犯すんだろうなんて女のわたしは思ってしまう。冒険にかぎらず、ギャンブルなんかも男の人が圧倒的にハマってるんじゃないだろうか。ギャンブル、行き過ぎるとロシアンルーレットを始めるんじゃないかとわたしはヒヤヒヤする。そこまでは行かなくとも、自分が持っている金なり物を危険に犯して一か八かという体験は、生死を薄めたすごーく希薄になった狩り的体験なんじゃないかなと思う。なぜそこまでして命をかけたがるのだろう・・・。
村上春樹(男)の作品には多く、あの世的なものが出てくる。途中までしか読んでいないけれど、騎士団長殺しだってなんだか小さなおっさんというか、幽霊めいたものが出て来る。村上龍(男)のなんかもうハードすぎて何も言えまい、象徴としての死とかではないハードなやつが結構出てくる。池澤夏樹(男)も孤独に生きて、旅に出たりする。
なんだか全体的に哀しいのだ。そこはかとなく漂う、なにかの匂い。
 
角田光代(女)のエッセイのあとがきには、「どの話にはかならずこの女の子は悲しいと言っている。こんなに楽しいのに、100%の楽しさはいつか終わると心のどこかでわかっているから」みたいなことが書いてあった。でも彼女のエッセイは、それが生きていく中で起こる、この世界から離脱しない範囲の中での悲しさだった。明日も続く、その人生の中から今ある100%の楽しみが消えていくのが悲しい、というのが角田光代が22才のときに感じた悲しさだった。
 
「男性は肉体的に強いが精神的には弱く、女性はその逆」というのはまた誰が言い出したかよくわからないけど通説であって、個人的にはわたしの周りの男性たちは本当にそうだと思う。友人はわたしの男友達たちを「生きることにセンシティブすぎる人たち」と言った。生きることにセンシティブというのは、100%の生の中で生きている人達には生まれないものだと思う。それは生と死が擦れる境目に立ってはじめて生まれてしまうものなんじゃないか。彼らはとても弱いがとても男性的だとわたしは思うし、とても愛おしく同時に悲しい。
生きることのマイナスみたいなものを考えるとき、わたしの中では女と男の両方を意識する。明日も延々とつづく生きるに対する「しんどさ」なのか、生と死の擦れる音に耳をそばだてる「哀しみ」なのか。「しんどい」と「哀しい」はお互いの一部を共有しながらも、全てを共有できないほどの距離がある。男性作家の本を読むと、生きることのしんどさよりも、生きることの哀しみを強く意識する。
女性の方が太く強く、男性の方が細く儚い。
しかしとても逆説的でアイロニカルなのは、男性はか細く脆いのに、それでも自らを生と死が擦れる場所へと行くことを止められないことだ。ある意味破滅的で自滅的。だから女はいつも男に惹かれ、男はいつも女に惹かれるんだろう。究極的に、ふたつは分かり合えない。
女性作家はたしかに「生と死を見つめる」ことができるかもしれないなと、もはや一周周って思いはじめた。死んだ者と向き合う必要があるのは、皮肉にも生きている者であること、それは死者を抱えたまま生きなければならないという運命に人があるということ。死者を自分の中で他者として扱うか、それとも死者を自らのうちに取り込んで自分の死と同化させ、近すぎる隣人として生きていくか。それが女と男の態度の違いのように思えるときもある。男は基本的にストイックすぎて、見ていてい痛々しいのに憧れてしまう。
 
ツイッターの人が言うように、女性が生と死を見つめる作品を書くことができるのなら、それは女性がその状況の中で耳を澄ましている男性とは違うからだと思う。女性が書くのは、他者としての生死であって自己のうちの生死ではないんじゃないか。
 
耳をすませば生と死が擦れる音が聞こえる場所に行ってみたいな、と思いつつ。でもこれは完全なるわたしの推測だから本当の男の世界というのは違うんだろう。
ひとつ言えることがあるとしたら、男と女が全て分かりあうのは不可能なんだろうなということ。女同士でも難しいからね。でも完全に分かり合えてもツマンナイよね。
 
 
 

是枝裕和『映画を撮りながら考えたこと』高橋哲哉『記憶のエチカ』とか

 読んでみたいな〜と思っていたら時間ができたので立ち読み。

映画を撮りながら考えたこと

映画を撮りながら考えたこと

 

 

「自分のことを語るのは嫌だけれど・・・」と言いながら、なんやかんや500頁くらいのやたら分厚い本。基本的には撮った映画を時系列的に並べて、そのときに考えていたことを是枝さんがつらつらと書くという本。

 

なんでこれを読もうかと思ったかと言うと、これまた違う本なのだけれど、高橋哲哉の『記憶のエチカ』という本を図書館でチラ読みしたのがきっかけ。

 

記憶のエチカ―戦争・哲学・アウシュヴィッツ

記憶のエチカ―戦争・哲学・アウシュヴィッツ

 

 「「記憶」は「和解」や「赦し」を可能にするのか。戦争の記憶を哲学はどのように語ることができるのか。出来事から出発し、出来事をめぐって哲学するとはいかなることか。(…)安易な「物語」への回収を許さない体験・証言と向き合い、戦争の記憶とその語られざる「声」に耳を傾ける思考のあり方を問う。歴史修正主義戦後責任歴史認識を考えるときの必読書。」

 

このちょっと重めの本の中で、是枝監督が初期に出した「ワンダフルライフ」という映画に触れる。演技ではなくナマの語りは引力が強いという話題。


「ワンダフルライフ」予告編

映画は、亡くなった人たちが天国に持っていく記憶を選ぶ話らしい。『記憶のエチカ』の中では、この映画で配役された、役者ではなく一般人の語りの強さに触れる。映画の中なのだけれど、一般人の出演者はセリフではなく、実際に生きてきた人生のなかから1番大切だと思う記憶を選んで話す。見てると、たしかに演技と実際はまったく違う。厚みが違う。どんなに演技の人がうまくとも、実際の体験としての話が持つ厚みには到底届かなかった。

 

これは余談なのだけれど、「生きることの厚み」がすごく滲み出ている絵を去年見た。あの有名なジクムント・フロイトの孫で、ルシアン・フロイト英国屈指の巨匠がいる。彼は自分の身のまわりのひとしか書かないのだけれど、ふだん一緒に生活しているからこそある観察力が絵から滲み出ていてすごい。それこそ、ここに書かれている「演技」なのに、「実物」ばりの生きてることの厚みが絵にある。

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東京ステーションギャラリーに展示されていた「少女の頭部」という作品。「どこが少女・・・?」と思うのだけれど、目の前に立つとまるでメデューサに睨まれたみたいに身動きがとれなくなってしまう。)

 

話もとに戻り、そのワンダフル・ライフをyoutubeでちょっと見たというのと(全編アップロードされている)、前にネットでこの本が出たときの作者インタビューで「学生はものを作るやつが偉いと思ってるけど、そうじゃなくて実際に生きてる人が1番偉いんだ」みたいな発言が載っていて、あー読みたいなと思っていたわけです。

まあそういうわけで『映画を撮りながら考えたこと』を読んでたら、「不在を抱えてどう生きるか」という章があった。たしかその章では「誰も知らない」という映画を取り上げていた。

「誰も知らない」はシングルマザーの母親に捨てられた子供4人が、暮らしながらもあるきっかけで兄妹を事故で殺してしまいそれを山奥に埋めてしまう話。結末がとくにあるわけではなく「暗い」と他のプロデューサーに言われながらも、変えずに撮りきったらしい。あたり前だけど生きるということは結末があるわけでもなく、ふわりふわりと前に進む。結末があるのは君の名はみたいな大箱カンドー映画だけなんじゃないかと思う。是枝監督の映画はいつも、少し前を向く、みたいなテンションがあって生きるだな〜と思う。

兄妹を間違えて殺してしまっても、母親が蒸発してしまっても、彼らは逃げずにひとつのところに住みつづけるのだという。人を殺したら逃げそうなのに。子供たちは母親の優しい思い出と、その場所で暮らした記憶があるから、そこを動かない。そのものはそこにいなくて、不在だけれど、そこで生きていく。

この映画をどこかで上映したとき?上映会を行ったとき?にその映画館の館長さんから吉野弘の「生命は」という詩を送られたという。「生命は / その中に欠如を抱いだき / それを他者から満たしてもらうのだ」。きっとあなたの映画のテーマにぴったりだから、と。

 

わたし自身、なんだか誰かの輪に入りたいよ〜と思いながら失敗し続けてきたな、と思った。他者から満たしてもらいたいのだけれど、それがうまくいかない。中学生からずっとそんな感じ。

ただ最近、卒論を進めていくうちに、そのテーマからどんどんと何かの輪に加えてもらっている感じがするのです。生きることとはなんだろう、自分のアイデンティティを社会に求められなかったらどうすればいいんだろう。当事者研究みたいなことをしているのだけれど、そのことによって自分の中の引っかかりがどんどん意識されていく。そうすると、いきなり読みたい本や見たい映画がわっ!と増えた。

今まで本も映画もなんだか好きだけれど、決定的に好きというわけではなかった。輪に入りたいけど入れない、輪の周りでとりあえずウロウロしている人だった。けれど、深く研究に関して考えると、どんどん世界がわたしに輪に加わっていいよ、と言ってくれる。読みたい本がつぎつぎ浮かんで、ひさしぶりに本屋さんがとても楽しい。

欠如を満たしてくれる相手というのは、必ずしも人じゃなくていい。わたしは人の輪がとても怖くて、対人関係がうまく結べない人だからこそ、誰かが書いた言葉や作品がわたしの欠如を少しでも満たしてくれるんじゃないか、そのための場所にやっと入れたんじゃないか、と。とてもうれしくて、生きることに前向きになれそうなここ最近なのです。

たくさん本が読みたい!詩を読みたい!映画を見たい!学問したい!

 

そんな気持ちになりました。