ぐるぐる雑記

読んだり観たりすると感想が出る。うんちと一緒だね。

屋根の上にのぼってきゅうりをかじること

ほぼ日刊イトイ新聞の今日のダーリンでこんなことが書かれていた。
世間的に、繊細さというのは良く取られ、鈍感さというのは悪くとられがちだ、と糸井さん。
ただ、ぼくは、鈍なほうに鈍なほうに歩んでいこうと、
 練習を続けてきたように思います。
 どう言えばいいんだろう、つまり、
 センサー感度高いのも、わるいわけじゃないけど、
 「感じることそのものよりも、
 なにかすることが目的なんだからさ」と思ったのです。
 感じたことを物語にして表現するにしても、
 「表現する」ということを「する」わけですよね。
 そこには、感じたことを切ったり削いだりするという、
 ある種の暴力的な決断が要ると思うんですね。
 どこまでも繊細に感じ続けていても、
 それをいったん止めて「なにかする」のでなくては、
 ただの線の切れたセンサーになってしまいます。
 どうしても、そこでは鈍にならざるを得ないでしょう。
タフだ〜と思った。そしてわたしはこれにすごい憧れてしまった。
 
村上春樹1973年のピンボールで主人公は「僕は楽観的な人間だ。けれど頭は悪くない。逆よりマシだと思うけれど」みたいなことを言う。村上春樹の小説の主人公はいつもこのテンションだ、根本的に楽観的な人間。でもこれを読みながらわたしはいつも、自分は真逆の人間だと思ってしまう。悲観的な馬鹿。最悪の組み合わせ。
わたしの周りの友達を見ていると、彼らは寄ってたかって楽観的か悲観的だが頭が良い人ばかり。彼らは彼らなりに傷ついてタフにならざるをえない経験をしてきた。元はとても繊細だけれど、でもとてつもないタフさを身につけた。きっと頭がいい彼らは傷ついたことから学ぶことができる。けれどわたしは傷ついたことから何も学べない。ただ傷つく、傷つく、の繰り返し。これは本当に、根本的な馬鹿だ。救いがなさすぎて、自分が疲弊することが目に見える。
生きていくことは辛いことだ。傷つくことばかり。春というだけで気持ちが鬱になる。だからそんな世界で生きるには何か武器か盾を持つべきなのだ。たとえばそれは趣味とか。
前に付き合っていた彼は、本当に繊細な人間だった。一緒にいるとこっちまで生きるのが2倍くらい辛くなってきて、どうしようもなくなって別れた。彼は、美しさに固執する人間だった。全ての趣向に一貫するものがあり、革靴をこよなく愛し、ブルックスブラザーズに身を包んで紳士であるという法則の環境の中に自分を置き、自分を守っていた。彼が身の回りの全ての物事を、自分の秩序で整理していこうとする姿を見ていると、これが生きづらさから来る性格なのだろうと思った。そうでもしないと自分を守れないんだろう、と。
昨日の夜に自分が無趣味であることが辛くなってきた。そして自分がなんてつまらない人間で、この世に存在する価値が与えられていないと自分を責め続けた。基本的にわたしは自分が信用できない。
 
朝起きて、まず水を飲んで次に野菜ジュースを飲んで、コーヒーをいれた。それから父親に炊きたてのお米を蒸すために一度サランラップに全部包めと言われ、炊きたてのお米5合を拳2つ分ずつくらいをまとめてサランラップに乗せ、手で少しだけ形を整えて、包んだ。それを7個くらい作りながら、ビル・エバンスのSunday at the villege vanguardを聴いていた。今日は良い天気で、気温も温かくて、しかも風が心地よかったので、窓を開けて、トマトのサラダを作ってそれをつまみながらお米を包んだ。
ぼんやりとイトイ新聞の鈍感さについて考えていた。たぶんタフさがないことは、致命的な人生の設計ミスなのだろうと。でも今からタフさを得ようと思っても、わたしにはきっと無理だ、遅いし、そういう人間ではない。
ビル・エバンスとトマトサラダと春の風は、わたしのこころをとても軽やかにした。少なくとも、鬱々として自分を責めることを一瞬でもやめることができた。そういう気持ちというのはやっぱりなくなることはない。人生は苦しみの塊で、楽しみや嬉しさというのはご褒美なんだと仏教の教えにあるように、やはりマイナスの感情は生きることと表裏一体で、それはアルミホイルの裏と表をばらばらに剥がせないほどくっついている。問題は、とお米を包みながら思った。どうやってそれに押しつぶされないで生きていくか、なのだと思う。
けれど、と思う。今のこの瞬間だけは自分を責めていない。春の風とトマトサラダと爽やかな空気がわたしを包んでいて、わたしは何も憎んでいない。わたしはこういう、世界も自分も他人も憎まない瞬間を自分が感じられていることに嬉しくなった。爽やか、ということばがこういうわたしの気持ちを表すのに適当であるかはわからない。けれど、爽やかな世界というものを一定的に持つべきだ、という義務感が自分の中に生まれた。でもそれは表面的であったり、アイコン的であったりしてはいけない。根本的な爽やかさを、自分の内側のある一部分に作り上げること。それは、風の気持ちよさを忘れないことや、トマトの美味しさを感じること、音楽の素晴らしさに自分を委ねること。炭酸水の泡の音を聴くこと、屋根に登ってきゅうりをかじること。全て、心地よいと思ったときにしてきたことを忘れないこと。世界を自分の中に持っておくこと。
そういう確かな世界をひとつ心に作り上げれば(しかしそれには努力も必要)、わたしは少しだけ自分を責めることを辞められて、世界との接点に居場所を作ることができる。爽やかさに包まれたとき、世界がとても穏やかで美しいものに溢れているように見えるから。
でも誤解すべきでないのは、生きることは辛いことで溢れているという姿勢を忘れないこと。でないと、何かを勘違いしてしまって、また同じ繰り返しを何度もしてしまう。春の鬱に自分を沈めて、世界と自分を憎むことしかしなくなってしまう。
イトイさん、わたし鈍感さはまだ手に入れられるかまだ分からないけれど、ひとつの世界を自分の中に作っていこうと、イトイさんの記事を読んでちょっと思ったよ。生きることを、それでもしないといけないんだとはやっぱり思わなきゃいけないから。