ぐるぐる雑記

ぬーん

エドワード・ホッパーとか、ハンマースホイとかグレコとか

鷲田清一(わっしー)は言った。自分の痛みとはあまりに理不尽なゆえに悲しむことすらできない、と。(『「聴く」ことの力』)

わたしはよく理不尽な辛さに襲われる。さっきも家の廊下であまりに辛い気持ちになってキッチンに移動する足を止めてしまった。廊下に立ち尽くしてぐっとこらえる。ただ直立不動でこらえる。そしてなるべく波にさらわれず、過ぎるのを待って、キッチンへ向かい母親がイタリアの土産に買ってきた7ユーロの赤ワインをボトルの半分ほど飲んで、同じく土産の3年物のチーズをかじった。アルコールがあると、気分が緩やかになる。もしタバコがあったなら、気分は冷静になるけれど、タバコはしばらく吸うのを辞めているからここはぐっと我慢する。

そう、わっしーの言うことは本当だといことを書こうと、ワインを飲みながら考えていた。自分の痛みというのは理不尽だ。どこからやってきたのかよくわからないし、その実体さえつかめない。自分の悲しみは散らかった部屋のようだ。秩序がなく、手の施しようがないように見える。だけれど、一方で人の悲しみというのは秩序だって見える。もしくは散らかっていても、そこになにかしらの意味が見えるように。

わたしの母親は片付けが異様に下手で家中おそろしく散らかっているが本人はその理由がわかっていない。だから何度片付けても片付けても、また無限に散らかっていく。しかしわたしからすればその理由は明確で、ものをしまう場所のカテゴリーに対して、しまわれる物のカテゴリーが3倍くらい多い、それだけだ。巣の無い鳥が、巣がないから仕方なくそこらへんを飛び回るのと同じことが家の中の物たちの間で行われている。しかし母親は当事者すぎてそれが分からないから、片付けと散らかすを円周率並みに繰り返してしまう。無限ループ。アーメン。

他者の痛みは見るに値するというのは鷲田清一レヴィナスの主張だけれど、わたしは絵を見るときにこのことを考える。

絵画、それは先人たちが作ってくれた優れた器。そこには考え抜かれた喜びがあり悲しみがある。そして絵画を鑑賞するとき、わたしは自分の中の感情を絵に丸投げする。そして優れた器に収められてはじめて、わたしの悲しみや生きる辛さというものは見るに値するものになる。そこではじめて、わたしは自分のことをやっと冷静に見ることができる。

高校生のころ、ヴィルヘルム・ハンマースホイが好きだった。

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この絵は国立西洋美術館の常設展に展示されている絵で、上野にいくたびこの絵を見ていた。人のいない孤独。自分以外はこの世に存在しないかのような、静けさと空気に漂う神経質さが漂ってくる。しかし最近はこの絵があまり馴染まなくなってきた。

最近はエドワード・ホッパーの絵が見たくてしょうがない。

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たぶん有名なのはこの絵だ。どっかで見たことある気がする。同じ人物の絵なのだけれど、だいぶ様相が違う。今度は、社会の関係の中で感じる孤独がそこにある。ハンマースホイはもっと静かだったのに対して、ホッパーはある大きな機構の中でまるで自分が存在していないかのような孤独、そしてそれに対して疲弊しているような感じがとても良いのだ。

これらの絵を見比べていると、わたしの孤独の質が変わったんだな、というのが良くわかる。ホッパーの絵がとてもいいなと思うわたしはきっと、関係性の中で孤独を感じているんだろう、と思う。例によって、他者の痛みを借りて自分の感情に目を向けたわけである。

わたしは禅寺で育ったくせに、幼稚園・中学校・高校と、バキバキのカトリック校で過ごし、毎日聖書を読み続けてきたわけであるが、いままでキリスト教なんかうさんくせーと思っていた。シスターがうじゃうじゃいる学校だったが、なんだかやっぱり彼女たちの言うことは理解できなかった(神父さまの言うことも)。けれどこの前、どうしても気分が落ち込んだ時に国立西洋美術館で見たエル・グレコの絵に思わず涙してしまった。

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よくわかんないけど、この人はわたしのために苦しんでいる気がする、と思った。ブッダは悟った人で、すばらしい言葉をたくさん言っている。けれどやはり常人にはそれを目指すことしかできない。一方で、キリストはたしかに卓越した人だ。普通の人は湖の上を歩いたりしない(ミスターマリックは別として〕。けれど彼の生まれた使命は、人間の罪を負うためだった。

最初のことに戻るけれど、やはり人間には優れた器が必要だと思う。それは絵画であり宗教であり音楽であり文学である。誰かのちからを借りてやっっっっと、わたしは自分のことに目を向けられる。だからこそ、文化というのはなくならないし、文化がなくなったときこそ人間性の死だな、なんて思ってしまう。

 

今日も一応生きながらえたなーなんて思いながら。