ぐるぐる雑記

読んだり観たりすると感想が出る。うんちと一緒だね。

『うりずんの雨』- 被害者だからって人を傷つけていいんだろうか?

お題「最近見た映画」

突然だけれど、わたしの母親は沖縄の生まれで、そのせいか沖縄関係の問題をニュースで見ると複雑な気持ちになる。報道は現実の一部しか切り取らないという言葉があるように、本当にそうで、ニュースで見る沖縄というのは「怒り狂った住民」に溢れた島のような気がしてしまう。

ニュースで扱われる沖縄問題は、基本的に基地問題である。基地問題の背景にあるのは、第二次世界大戦での沖縄の地上戦、米軍統治時代、日本返還後の不当な扱いなど、納得したくなるくらい結構ひどい扱いを受けているのはなんとなく想像がつく。

一方で、祖母の家に行って、いろんな人と話すと必ずしも全員が怒り狂っているわけではないということがわかる(そりゃそーだ)。基地に反対の人もいれば賛成の人もいる。けれどそんな多様な選択肢が存在して、多様な考えを持つ沖縄の人の一部を写すことでなんだかイメージが偏ってしまう気がする。。

たとえば神奈川の親戚に、まったく沖縄と関係のない一家がいて、彼らがある日うちに来たときに沖縄出身の母に向かってこう言った。「わたしたちが代わりに普天間基地の反対運動してきたわよ!」と。別に望んでもないし、母親はそういう反対運動に無関心だけれど、メディアによって作られた沖縄人像として振る舞わなければならず「ありがとうございます」と応答していた。その話しは何回か愚痴として語られていたから、よかれと思って「あなたのために」という視点は迷惑だったんだと思う。神奈川の親戚は心から普天間基地に苛立っている人たちに同情していたのかもしれないから、批判はできないけれど。

大学の友達に誘われて、ジャン・ユンカーマン監督の『うりずんの雨』という3時間もある(!)やたら長い沖縄に関するドキュメンタリー映画を見てきた。そしてやはり同じ感想を持った。


「沖縄 うりずんの雨」予告編

映画の中で、2つこころに引っかかったシーンがある。1つは基地のフェンスに貼られた「オスプレイ本土の空を飛べ」と書かれた張り紙。もう1つは、沖縄の12才の女の子をレイプして殺した共犯者の元米軍兵へのインタビュー。

2つに共通して思ったこと、それは、「被害者だったら誰かを傷つけてもいいんだろうか?」ということ。

沖縄の人たちはたしかに不当な扱いを受けてきた。沖縄の人たちだけでなく、世の中のたくさんの人達は不当な扱いを受けているだろう。たとえば福島の人たちへの風評被害もそうだ。けれども、そういう「被害者」とされる人たちの反対運動を見ているとたまにものすごい違和感に襲われる。宗教みたいだからだろうか?

けれど、反対!と言って誰かを批判したり傷つける行為は違うんじゃないかな?と思う。その根底には、わたしは被害者だから、という意識があるんじゃないかなと思う。被害者なんだから怒って当然なんだ、という意識。でも考えてみると、被害者だと思って当然の行動を取っていたら加害者になってしまうんじゃないかって。

たとえば「オスプレイ本土の空を飛べ」っていう張り紙だって、危険度の高いオスプレイの被害者は沖縄人ではなく、本土の人間ならいいんだ、っていうこと?って思ってしまった。わたしの家の近くにも米軍基地が2つあって、普天間ほどとは言わないけれど結構な頻度で飛行機が飛ぶ。じゃあ、ここに落ちれば、彼らは安心なのかな、と思ってしまう(そういう気持ちすら出てきてしまう状況だということも言えるからそれを真っ向から否定することはできない)。

被害者という意識がある限り、加害者という対立の関係が絶対に存在する。自分は被害者だ被害者だと強く思えば思うほど、きっと加害者への憎しみが強く強くなっていくんじゃないかと思う。けれどそれって、何を変えられるんだろう?きっと、加害者役と被害者役を順番こで交代し続けるだけで、何も進展しないんじゃないかと思う。

映画の中で、ひとりだけ加害者・被害者の対立でモノを考えてないんじゃないかなという人がいた。石川真生さんという女性の写真家。彼女は若い頃、バーで働きながらたくさんのアメリカ兵と交流をして、そしてそこからアメリカや沖縄というものを考えていたみたいだ。

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こうやって個人の関係性のなかでものを考えるのと、概念だけで考えるのでは雲泥の差がある気がする。人間は頭がいい。だから概念だけでものごとをたくさん考えられる。けれども同時に愚かな側面だってたくさんあって、それだけを考えていると人の温かみの中で自分がいるということを忘れそうになってしまう。強いことだって言える、なんだって概念の中では言える。けれど、それを生身の人間に向けたとき、どうなるのだろう?

わたしは別に普天間に反対とか賛成とかそういう意見はない。けれども、考え方として、自分の立場を固めて、見えない何かに反対するのはとても怖いことだと思ってしまう。状況はつねに変わるし、わたしたち人間はどんなに強いふりをしていたって傷ついてしまう。被害者を悪いと言ってるんじゃない。加害者を悪いと言ってるんじゃない。その凝り固まった二項対立から一度抜け出して、ものを見た方がいいんじゃないかと思ってしまう。

ひさしぶりにそんなことを考えてみたけれど、考えたからって実行できてるわけじゃない。考えてみたことはやっと徒競走のスタートラインに立ったくらいのことで、結局なにひとつ行動はできていない。棄権しようが、だらだら走ってビリッケツでゴールしようが勝手だけれど、とりあえずこういうレーンがあるってことを知れたからいいよね。