ぐるぐる雑記

読んだり観たりすると感想が出る。うんちと一緒だね。

荒木陽子『愛情生活』、運命みたいなふたり

お題「読書感想文」

人ヅマのヌードばっか撮ってるアラーキーの亡き奥さん、荒木陽子の書いた夫婦の生活の本なんだけれど、困った…これ読んでると贅沢がしたくなってくる…。

 

愛情生活

愛情生活

 

 

 

そういえば最近わたし卒業間近のくせに妊娠したんです。で、うちの母に妊娠を伝えるとき、どうしたらいいか分からないから沈鬱な気分をごまかすために新大久保イチおいしいタイ料理屋さん「バーン・タム」に母を呼んで、ハッピー&ガヤガヤの中で「妊娠しました!」って笑い飛ばすつもりが、想像以上に店内がうるさすぎたのと自分の臆病さのせいで何も伝えられず、アボカドサラダとパープッポンカリー(ソフトシェルの卵カレー炒め)とガパオを頬張って、会計を済ましたあと、しびれを切らした母に、
「で、相談ってなに」
と言われ
「どうせ妊娠でもしたんでしょ」
と見抜かれた(母というのはどうしてこうエスパーなんでしょうか)。
わたしが「どうしよう〜」と路上でエコーの写真を見せながらメソメソ泣いていると、強くたくましい母は
「タクシー!新宿西口のヒルトンまで」
とタクシーを捕まえて、ヒルトンのバーラウンジまでわたしを連れていき、ソファにドカッと腰掛けてシンガポール・スリングをひとくち飲んでからやっと話をはじめたのである…(中国人に間違えられたけど)。
たくましい母…わたしの母にとって、贅沢は癒やしなのだ…。

 

しかしこの本を読んでいると、贅沢している荒木陽子に自分を重ねたくなる。ホテルでアワビのステーキとか食べてシャンパン飲みたい。青山の小さなレストランでテリーヌとか食べたい。素敵な真珠のネックレスしたい。
わたしの少ない女の子という女の子な部分が刺激されて、黙ってられないわけです。女の子としての承認欲求を贅沢で満たしたくなる、そんな気持ちが自分の中で膨れ上がるわけです。

 

一時期、付き合ってた男の人はマジな紳士的なタイプのロマンチストで(誕生日プレゼントは薔薇の花束だった)、その男の人とは20歳そこそこのくせに、通っていたフレンチのレストランがあった。年に3回くらい、バイトして貯めたお金で、服買って靴買って、一番高い時計をして、代官山まで出かけておいしいランチを食べに行っていた。
「いつかディナーも食べたいね」
なんて言っていたけれど結局別れて、そのあと一回だけその男の人と六本木に移転したお店に行ったけれど、内装も支配人も変わっていて、なんだか彼にもお店にも味にも馴染めなかった気がする。全部終わっちゃったんだな、なんてそこで思ったのだ。
今でも最初にその場所で食べたものは思い出せるし、あのときの特別な幸福感は胸の中にある。桃のサイダーが美味しかったから、きっと今頃の季節に行っていたんだろうな、なんて思い出す。
それに何より、贅沢する前にちょっと背伸びして化粧したり服着たりピアスをつけるのって、本当に気持ちがいい。わたしなんだけど、ちょっと贅沢なわたしになれるわけです。背筋なんかもピンとしちゃったりして。
そういう気持ちをぐぐっと、思い出させる話がたくさん。

 

…いやほんとはね、こんなこと書きたかった。
「愛が消え去り跡形もなくなったのなら、記録も一緒に消滅すればよいのである。しかし愛が消え去ったと思っている人間の心の片隅に、記憶というものが、いつまでも存在するように、記録もまた、永遠に存在するものなのだ。残酷なほどの生生しさで。」
これこそ、この本そのものなんじゃないかなと思う。陽子さんは死んだ、この本を書いている陽子さんは随分前に死んだのだ。そのことが妙にこの本を読んでいる間中頭の中にこびりついていた。
別に遠藤周作だって死んでる。でも海と毒薬を読んでも、そのことは別に意識されなかった。
生きていた愛、つかめないし、だれにも見ることはできないけれど、生々しく生きていた愛、それがこの本には息づいたまま閉じ込められている。だからこそ、死んでしまった、という事実がとても色濃く感じられてしまう気がする。
逆にアラーキーのセンチメンタルの旅・冬の旅なんか見ると、写真の中で陽子さんはたしかに生きているのに、死ににいく過程をたんたんと辿っているような気がする。生きてるはずなのに運命づけられた死が、その表情の中に、その寝ている姿の中に、常に漂っている。
死んでしまった中にある生が、荒木陽子が残したものだとしたら、生きている中にある死が、荒木経惟が陽子さんの中に見たものだったのかな、なんて思う。なんだかとっても、愛おしいふたりだ。運命みたいなふたりなんだ、と思った。

 

……卒論やば〜。