ぐるぐる雑記

読んだり観たりすると感想が出る。うんちと一緒だね。

春ぎらい

冬至を過ぎたあたりからめっきり日がのびていくのがわかりやすくなりました。最近の東京では雪が降って冷え込む夜が何日か続いたなと思ったら、突然日差しが春めいてきてとうとう春がやってくる予感がします。
季節の変化というのは、気温ではなくて日の光によって感じるものなんだなと、今日のような晴れた日に思います。日の光が体に当たると暖かく、そして光が生命にあふれて輝いているように見える。その光に照らされて溶けてゆく雪の残骸、町のアスファルトの色、枯れていた木の肌。全部が、また生まれ直して命を吹き込まれていく感じがします。


ところで、わたしは春が苦手です。こういう輝きがとても気持ちを憂鬱にします。桜の花とか見てると鬱々としてきて心が何かから分離しだすのがわかります。酒を醸すときにでる甘い匂いを漂わせた闇みたいなものが、こっちを見ている気がするんです。
この気持ちは物心ついたときからずっとあって、その根底にあるのはやっぱり生と死な気がします。春は一番、生と死が交わる季節な気がして、それがとても気持ちを憂鬱にさせてくるのだと思います。
高校生のころ、現代文の教科書に梶井基次郎の「檸檬」が載っていてとても興味を持って読んだのを覚えています。

 

檸檬 (280円文庫)

檸檬 (280円文庫)

 

 


きっとこの人は、目に見えることのぜんぶを把握しようとしているんだ、と。学校が終わったあとに本屋によって、500円くらいで文庫を買った記憶があります。その中には、檸檬だけじゃなく、桜の木の下には、とかKの昇天というのも入っていて、すごく好きで何度も読みました。そこにあるのは、やっぱり春的な鬱の感じ。生きることと死ぬことが交わる感覚を味わうことができるんです。
死んだら向こう側、生きているうちはこっち側、ではなくて、生きている人間の内側にある死、世界は死んだものとの共存でできているという事実、そういう生の中の死が醸し出されているのが本当に好きでした。梶井基次郎は30才かそこらで病死してしまうらしいです。自らのうちに死の爆弾みたいなものを抱えているから書けるのか、彼の感性がそうさせるのかはわからないけれど、けれども文章にはそういう雰囲気が多く含まれている気がします。
いまから梶井基次郎を読んで、そのあと「ノルウェイの森」を読もうかなと思っているんですが、ノルウェイの森はもうちょっと個人の中にある生と死に焦点をあてている気がします。梶井基次郎は個人の周りの環境や自然の摂理の中にある生と死という感じがするけれど。

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 

 



まるで重箱の構造みたいだな、と今思いました。ノルウェイの森では、生きている人間の中に死んでしまった人間がいる、という感じ。生きている健全な人間の、確立したひとつの魂という箱の中に、死んでしまった人間の箱がずっとある。あくまでもそれらは外部(自然に返ってゆく的発想の外部)にはあまり接触を持たない感じがします。ひたすら
内側に閉じていく、内側に無限に繰り返される箱の中の箱。ノルウェイの森は、というか村上春樹の作品ってそういう感じがします。どんどんと内側に閉じて、深部に向かって規則性と不規則性を持って反射する万華鏡のようになっていく。すごく内向的な作品が多いんだろうな(雑感)。
というわけで今日は春らしい日差しを見て憂鬱になったので1日家に引きこもってます。昨日銀座で母親ととんかつ(安い!おいしい!)を食べた後、ひとり町をぶらついたらショーウィンドウの中の色がめっきり春めいていて、うっかりCOSでピンク色のジャケットを買いそうになりました。おっとおっと、お腹が大きいうちは体のイメージが歪んでるから服買うのやめるんだった。子供を生んで、日差しだけじゃなくて気温も春になったら春らしい新しい服を買ってわたしも生まれ変わろうと思います。春は嫌いだけれど、季節が変わるたびにまるで自分の人生も変わっていく感じがするのは、飽きっぽいわたしにはとても嬉しいことです。さて、とりとめもなく書いたので本読もうかな〜。