ぐるぐる雑記

ぬーん

口紅を消してしまえば、どんな顔かも思い出せないけれど

本とか映画とかの感想書くはずのブログだったけど、もう本なんか読みません。育児してると集中力なくなります。

という言い訳はさておき、ふつうに日記を書きます。

今日出会ったおばあちゃんの話。

今日は「タイカレー食べたい」という思いつきのもと、午後2時にバスに乗って駅前のカルディを目指したのです。お目当てはタイ直輸入のタイカレーの素。混ぜるだけでいいらしい。とりあえず眉毛と口紅だけ塗って、時刻表は見ずに赤子を抱っこして家を出てバスに乗りこんだのだ。

鎌倉に住んでるんですけど、この土地で赤子を連れてバスに乗るとすごい。おばあちゃんからのラブコールがすごい。「あらかわいいわね」と声をかけられる確率が、2回に1回。ちなみにおじいちゃんに声をかけられるというのはほんとうに稀。95%が子供を育ててきたおばあちゃん。そして今日もバスの中で、88歳のおばあちゃんに声をかけられました。「あたしひ孫いるのよ。」という話になって、おいくつなんですか?という問いに、「最近米寿終えたばかりなのよ」というおばあちゃん。気さくで元気で明るいおばちゃん、名前は聞かなかったけれど、そのおばあちゃんに最終的に駅前の食事処でプリンをおごってもらったのだ。

そんなおばあちゃんとのおしゃべりで、少し心にのこった話があったので書いておこうと思ったら眠れなくなってしまった。

おばあちゃんの旦那さんは、転勤族のパイロット。結婚は22歳、子供を生んだのは23歳、それまで北海道を一度も出たことがなかったおばあちゃんは突然転勤族になったらしい。子供の小学校は5回変えたらしいので、ほぼ1・5年に1回は引っ越ししてたのだと。昔は引っ越し業者なんていなかったから自分たちで引っ越ししてたのよ、というのでわたしはとりあえず『となりのトトロ』でメイたちの一家が軽トラで引っ越ししてくるシーンを頭に浮かべた。

いろんなところに住んできた話で、ひとつなぜか心に引っかかったのが、宇都宮に住んでたころの話。引っ越し先が見つからず、探したのだけど唯一見つかった土地が遊郭のど真ん中。赤線だったらしい。宇都宮に遊郭があること自体知らなかったのだけど、検索したら出てきた。

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そこに住んでた人たちを、近所のいわゆるふつうの仕事をしてた人たちは毛嫌いしていたらしい。けれど実態は、家族に仕送りするために体を売ってたという。「近所の水商売やってる奥さんが、「おくさん、お味噌汁ないかしら」って朝だんなが出てったあと来るのよ。お茶漬けのときもあったわね」。

夜は暗くて見えないからいいけれど、朝、道を歩けばおっぱい半分出した女の人が歩いてたりするから、さすがに子どもに見せられない。

でも遊郭の真ん中に住んでるから、それを見せないというのは無理な話。このおばあちゃんは結局、毎朝おにぎりを握ってお弁当を作って、子供2人を連れて毎日どこかへ電車ででかけていったらしい。毎日。宇都宮にどれくらい住んだかわからないけれど、それを毎日やるっていうのは結構しんどい日もあったんじゃないかなと思う。でもふしぎに、そのおばあちゃんは楽しかったわ、とその話をしてた。

この話がなんだか心に残ったのは、育児の孤独みたいなものがこの話に見えた気がしたからかもしれない。

だって、遊郭の真ん中に住んで、幼子2人、旦那さんはパイロットで家に帰ってくるのは遅くて、結構寂しかったんじゃないかと思う。今みたいにインスタとか、ツイッターとかSNSもないから誰にも共有されず、ただその体験はおばあちゃんの中におばあちゃんだけの記憶のかけらとして蓄積されていた。

その話を聞きながらもわたしの胸にふと浮かんだのは、空いた宇都宮の電車の中で窓の外を眺めてはしゃいでいる、2人の子供を見つめるおばあちゃんの眼差しだった。優しくも、寂しげに。愛があり、微笑みがあり、それでも、部屋に射す夕暮れ時の斜陽みたいな寂しさがある。そういう眼差しがあったんじゃないかなと思う。おばあちゃんは楽しかったというけれど、やっぱりその時はその時で大変で、孤独だったんだと思う。

それでも愛おしいのが子どもってもんだけれど。愛おしさの隣には影があるのが育児なんだなと思う今日このごろ。

そのおばあちゃんには、なぜかプリンをおごってもらい、帰りのバスも一緒。口紅が取れちゃってという話をしたら、「あらこれいいわよ使って」と口紅を貸してくれた。88歳のおばあちゃんの口紅、案外わたしにも馴染んでいた。そのおばあちゃんはバスの終点まで乗るというけれど、わたしは途中で降りて、降りたあとにバスの後ろに座るおばあちゃんに手を降ってさよならしたのが今日の午後7時半の話。

家に帰って、子供を寝かせ、旦那さんが帰ってきて、お風呂に入る。

お風呂に入る前に、化粧落としで顔を洗うときに見た鏡の中で、わたしがしていた口紅はやっぱり案外似合っていて、落とすのが惜しかった。たぶんもう、二度と会うことはないんだろう。ネットのせいで繋がりまくってしまう世界において、もう二度と会えないっていうのはとても貴重な体験だなと、こういうことがある度に思ってしまう。「また会える」を作るのは人間関係を作ることだから案外簡単だしわかりやすいものだけれど、「もう会えない」がもたらすものは自分の心の肥やしなのだと思う。たくさんの「もう会えない」を体験して、その度にちょっとだけ人生のことを考えることが自分の心を少しだけ深いところまで連れてってくれるような気がするよ。

口紅も落としてしまえば、もうどんな風に似合っていたのかわわからなくなってしまった。おばあちゃんがどんな顔だったのか、もう正確には思い出せないけれど、なぜだか、宇都宮に住んでたころ、おばあちゃんがまだ若いおかあさんだったころ、電車に乗って毎日子供を連れ出していたときの眼差しだけは、見たこともないのに今でもしっかり思い出せる。

そんな日だった。今日も一日が進んでいった気がする。

お題「今日の出来事」