ぐるぐる雑記

ぬーん

逃げて他人を馬鹿にして、キャッチャー・イン・ザ・ライ

辛いことがあって、どうしても逃げたい。今、ここ、そのさなかでは何も考えられない。どこかへ旅へ出たい。。

ああああ逃げたい!と考えていたら、思い出したのはサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。高校生のときにたまたま本屋で手に入れて、去年再読した。

 

逃げて他人をコケ落とし更に逃げまくる、でもそれは本当に望んでいることかと言われると違う。

 

キャッチャー・イン・ザ・ライについてみんなは何を思ったんだろうと、ネットをサーフィンしてみると、この本が爆発的に売れた発売当時の時代背景に多くの人が触れていた。大学闘争時代、社会に反抗する若者の象徴として、彼らの心を支え、共感を生んだんだ、と。うーん、なるほど。。

余談なのだけど、いろいろあって捻くれた小学生Aくんとよく話す。小学校中学年の男の子で、彼はいろんなものを馬鹿にして、自分を天才だとひけらかす。

「僕は1年生のころたくさん本を読んだ、難しい言葉もたくさん話せた。でも同級生は誰も僕の言ってることが分からない。だから僕は辞書を読んだ。」とか関心するようなエピソードがあったりする。あとは、「学校の先生は馬鹿、ひとりの子が算数の展開図わかんないと、全員の時間使ってその展開図解説するんだよ?時間の無駄だよ、あんなのほっときゃいんだよ。」と言うくせに、ある進学塾ではクラスで1番問題が解けず、トンチンカンになり文句をつけてそこを辞めたらしい。

Aくんは家庭環境が複雑で、家族の関係がよくわかならい。引っ越しも恐ろしい回数している。彼が誇りにしていることは、自分は世間的にできる子で、賞賛に値するということ。

でも、本当は、自分ができないことを自覚している。自分が淋しい思いをしていることも自覚している。そんな自覚が、彼を真逆の方向の言動に走らせているんだ、とわたしは思う。認めると自分のことを否定してしまうから、せめて言葉の上では自分を認めていたいんじゃないのかな。真剣に取り合わないで、ひとりで喋らせておくと徐々に元気がなくなって、でも一通り放出すると素直になっていくA君は、まだ今なら捻くれきらずになんとか素直になれるのに、と思う。

 

話戻ってキャッチャー・イン・ザ・ライだけれど、ホールデンの反抗や逃亡は、決して社会に対するものではないとわたしは思ってる。他人に文句を言い続けているけれど、でもその原因は他人じゃなくて自分の中の虚無感や焦燥感や、何か、埋まらない真っ黒い穴のせいなんじゃないか、と。だから他人を馬鹿にして、どんなに逃げたって、何一つ解決しやしない。何一つ対抗になんかなってない。彼は自分の心の穴に引きずり込まれないように、なんだか怯えているみたい。

 

あー再読してから続きを書こう。なぜか主人公が電車に乗って変なおばさんに絡まれるシーンをふと思い出して、読んでみたくなった。

 

まあ何が言いたいかって、旅に出たからって物事が解決するわけじゃない。分かる、わたしからは逃げられない。そうなんだけど、わかってるんだけど、状況の内側にいる限り頭が爆発しそうだから、せめてこの状況から抜け出して、当事者ではなく異邦人になりきって、どこでもいいから繋がりを持たずに無責任な立場になることが必要なんだ。無責任な異邦人になって、あらゆる繋がりを自分から取り除いてはじめて、やっと心の黒い穴をそっと覗くことができる気がする。

 

おーい。そこは暗いかい。

 

打ち上げられたブログ

読む人がいないけどブログを書くのって楽しいよね。孤独な星の唯一の住人になった気分。宇宙に向かって、ひたすら信号を送りつづける。

まあどうせすぐに飽きてやめることも目に見えてるんだけれど。それでも打ち上げられた流木みたいな(社会学者の岸政彦の言葉)ブログの残骸を見るのも、悪くないよね。

 

中学生のころに、やたら携帯サイトが流行った。今からちょうど10年くらい前。あの頃はガラケー全盛期で、ツイッターフェイスブックもなくて、あるとすればミクシィ。でもそれもやらずに、自分でHTML組み立てて携帯サイト作ってた。仲良い友達がやってたからってのと、その子のことを執拗なまでに知りたかったからなんだけれど、でも案外ハマってしまった。

どのサイトにもお気に入りの別サイトへの「リンク」をまとめたリンクページがあったりして、そこから飛んで、違うサイトへ行くのがとても楽しかった。どのサイトも、だいたい閑古鳥鳴いてて、でもそれは最初に書いたような、孤独な星の唯一の住人たちが静かに送る宇宙への信号感があった。

繋がろうと思えばミクシィとかで繋がれたけれど、やはりそれは居心地の悪い場所だった気がする。同じ部屋にみんな突っ込まれた感じ。携帯サイトはもっと、わたしだけの場所だった。他のサイトのデザインがよければ、その素材元のサイトに飛んで、素材をゲットして、自分のサイトを模様替えして、素材サイトのURLを貼った。みんな今なんかよりずっと、著作権をきちんと守っていた気がした。転載元を書いて、違う場所へ飛ぶリンクを作ることは、同じ太陽系の仲間同士をつなぐゆる〜いネットワークのひとつだったんだと思う。ゆるやかなルールが、孤独な星を太陽系の一部として迎えいれてくれた。

昔使っていたidとかをたまにググってみる。難破船みたいにほったらかされた、中学生のわたしの言葉が、あのときと変わらない装いで出てくる。変なの、時を超えて、年を取るのはわたしだけね。ネットに取り残されたあの頃のわたしの言葉は、劣化することなく、けれど誰にも見られることなく、ただそこにあり続けてる。

もう削除するためのパスワードも何もわからない。そういう、やりかけのものたちがなくならないでほぼ永遠に保存されていると思うと、ネットはとても寂しいものな気がしてしまうよ。地球の周りを回り続けた、ライカ犬みたいに。

ララランド、つまララランド

観ました、ララランド。正確には観切ってない、退屈なもんで途中で映画館を飛び出してしまった。

映画好きの友達に「ララランド観たつまらなかった」と連絡すると「どうしてああなった、逆に笑えた」と。だよね。信頼できるのは、身近な人の意見。

 

話変わって、アマゾンプライムで、ティファニーで朝食を、を観た。オードリー・ヘップバーンのやつ。今までタイトルとヘップバーンの華やかな格好から、ハイソサエティな女性がティファニーでナンヤカンヤで男女がララランドかと思って手を伸ばさなかったんだけれど。夜に眠れなくて本も読みたくなくて、良い機会だから観てみたら、話全然違うし(失礼)、素晴らしい映画なんだね(何様)。すごい今更感あるけれどさ。40年くらい時差あるけどさ。

ララランドが40年後にまた見返されるかと言われると微妙なんじゃないかなと思っちゃう。アマゾンプライム6プラスとか40年後に出来たとしても、そこにあるのは今と変わらない、戦後すぐの時代の、銀幕の映画だったりしてね。

 

カポーティの原作を読みたいなあと思った。ねえこれはつまらない疑問かもしれないけれど、カポーティの時代の人たちの方が生きることの辛さや切なさを知っている気がするのは気のせいなのかな。形を変えて、今も探せば見つかるかな。

 

再度思うけれど、ララランド、観る人を馬鹿にしてんじゃないかなと思っちゃった。最後まで観てないわたしが映画を馬鹿にすることが一番馬鹿にしてるんだろうが。分かりやすいって、馬鹿にされてる気がするね。そういや村上春樹がなんかの話で、「自分の仕事はひとりひとりの魂に尊厳の光を当てることだ」って言ってたけど、ほんとに偉いなと思う。欲求から来る芸術は独りよがりでしかないって、偉い人が言ってたけど、ララランドを見る限り本当にそうなのかもね。芸術や文学の最たる目的は、村上春樹の言うような、個人の魂に光を当てる、それなのかもしれないと思う。じゃないとそれらがひろく、誰かを救うことなんかできないじゃないの。

ララランドは、独りよがりというか、アカデミー会員よがりに見えてしまったなあ。人が生きる上で、何かの助けになる映画には見えないや。消費する娯楽程度のものなんだろう。

何はともあれ、時間とお金が惜しかった。チッ。