ぐるぐる雑記

ぬーん

月からきた人

今日すごい喧嘩をした。父親と母親と結構な喧嘩。わたしがひとり暮らしをしたいと申し立て、それを却下され、わたしが泣きじゃくる(大学生…)。前にも書いたように、わたしがひとり暮らしをしたい理由は、全ての世界から距離を保ちたいからで、別に「恋人と〜」なんて下心1ミリもありゃしない。ただ、可能な限りすぐにでもひとりの時間を確保しないと自分という存在がばらばらに分解していってしまいそうでこわかった。わたしが引き裂かれる感覚がして、だからこそひとりの世界をいちから作るという分かりやすい経験をすべきだと思ったからひとり暮らしをしたいだけなのだ。

それに対して父親は「こころの準備が必要」との回答だった。たしかにそうだ。昨日の今日で娘がいきなり「引っ越します」と、3万円の風呂なし共同玄関のボロボロアパートに引っ越したら気が狂う。しかしそれを聞いてわたしはぶちぎれ状態だった。なぜなら精神的に切羽詰まりすぎて、死ぬか、いますぐひとり暮らしか、くらいの選択肢しか頭にないから。dead or live alone。

精神的に落ち込むのは高校生くらいからずっとで、でもそれを家族に相談したことはなかった。過食嘔吐を4年近く続けていることも、むかし見えない場所に自傷をしていたことも、家族は何も知らない。だって人は明るくなければいけない、というなぞの義務感が一番近い人達に向かって働いていた。近ければ近いほど、遠ざかっていくものとして恋人の心をあげたけれど家族だって十分そうだ。近いものとは同時にはるかに遠いものだということ。家族だからこそ言えない。しかし泣きじゃくって切羽詰まって、この機会を一週間でも逃したら本当に死にそうだと思ったわたしは、つい2ヶ月前くらいにどうしても飛び降りたくて飛び降りたくて、でも自分で命を経つのはだめだから遊園地バンジージャンプをした話をした。「本当に辛くなきゃ、バンジージャンプなんてしない…」と泣きながらポロっと言ってしまうと、母親が大号泣してきた。「なんでそういうこと言わないの!そんなに切羽詰まってるなんて微塵も見せないじゃない!家族なのに!」とわたしの正座のももバンバン叩く。わたしはただ、カーペットの一点を見つめることしかできない。

こんなに生みの親がわたしを心配しているのに、当のわたしは観音開きの扉を閉ざしたように全てを遮断していた。母親の言葉はたしかに正しかったし、この人がほんとうに優しい人だとは思った。けれど、彼女の言葉はまるで2km先で叫ばれた言葉のように、わたしに届く前に空気の無音にかき消されていた。なんでなんだろう、とまじまじ思ってしまった。わたしはわたしという人間の心の開かなさにいつも驚かされ、そしてそれによってひどく落ち込む。

 

わたしは自分という人間が、砂漠の砂なのではないかと考えたことがあった。テキサスの砂と、砂漠の砂の一番の違いは、乾燥の度合いだ。テキサスの砂は乾燥した砂の荒れ地ではあるけれど、雨が降ればそれをしっかりと吸い込んでいく。

高校生の夏休み、まるまるひと月テキサスに滞在してたのだが、15日目くらいにはじめて雨が降ったのを見かけた。朝起きて、朝食を食べているとホストマザーが「雨が降るのは5ヶ月ぶりよ」と言う。家のプールの水面に雨がぽつぽつと波紋を作っていた。派手ではないけれど、ささやかな雨はしっかりとテキサス州ダラス近郊の渇ききった土地を濡らし、そして植物たちは一瞬だけ緑を豊かにした(そのあとすぐ枯れた)。

けれど砂漠は違う。砂漠の砂はテキサスの砂よりもはるかに渇ききっている。渇きすぎた砂は、もはや水を吸うことができない。では雨が降るとどうなるのか?最近では異常気象のおかげか砂漠でもごくたまに鉄砲雨が降るらしいのだが、すると大量の雨は大地に吸われることは一切なく水の塊となって低い方へ低い方へと流れでていくのだと言う。だから、砂漠で一番の死因は枯れた川での溺死だと、なにかのまとめサイトで読んだ。

わたしは自分のこころがまるで砂漠の砂のように感じることがある。恵みの雨をまったく吸う余力がないほど、渇ききってしまっている。誰にもこころを開くことができず、閉じたまま誰かの愛を流しっぱなしのシャワーのように無駄にしている。

母親が夕食の準備をしているとき、犬を外に連れ出した。老犬なのでリードをつけなくとも走ってどこかに行くことはなく、ただてくてく歩く後ろをぽつぽつ追う。空にはうっすらと雲のかかった月が、当たり前だがひとつだけぽつんと浮かんでいた。わたしは夜の青さをひさしぶりに眺めた気がした。夜は黒いのではなく、青い。そしてとても冷たく、ひとりぼっちな気がした。わたしの本体は、実は月で暮らしていて、地球にいるこのわたしは本体の分身でしかないような気がした。黒い宇宙に隔てられ、限りなく絶対に到達できない月という孤独の惑星のなかで、ただひとり、銀色の光の中存在している、それがわたしのような気がした。

家族といても、自分だけが違う層の中にいるみたいだった。家族はひとつ上のふつうの人が共有する現実という層に暮らしていて、わたしはその現実の層のひとつ下のレイヤーにある層で息をしていた。同じ光景を目にしているはずなのに、まったくわたしはひとりぼっちだった。乖離(そむきはなれること。結びつきがはなれること)という言葉がほんとうにふさわしい。現実から乖離してしまった感覚が、確実にしていた。

 

夕食を食べ終わり、部屋で高橋源一郎の『ジョンレノン対火星人』(ふざけたタイトル)を読んでいるとき、ふと竹取物語のことを思い出した。かぐや姫だ。

かぐや姫はもともと地球の子供ではなく、月からやってきた子だった。男から得られる見た目への愛情を全て跳ね飛ばし、やがて月へと帰っていく。彼女は地球の人間にはならず、結局月へと戻っていってしまったのだ。同化できず、けっきょくは地球人を他者と見なして去っていくかぐや姫に、わたしは自分を重ねてしまった。

わたしの母親は沖縄生まれで、戦後の民族同化政策に反発することなく大和文化に同化していった。そして現在首都圏で穏やかに(少々悪趣味に)暮らしている。ほとんどの沖縄出身者はUターンで帰郷してしまう中、母はここで暮らすことを選んだ。彼女は誰かに同化していく力がとても強い。だれかの親身になっていく力がとても強い。いわゆるアイコニックな母親といえる。そしてその母(わたしの祖母)は奄美大島の出身で、これまた沖縄へ越してそこで嫁いだ人だった。言葉も文化も分からない土地に馴染んでいく力がとても強い人々だった。

しかしわたしは違う。誰にも心を開くことができない。母親にさえ。わたしは自分のことを考えてひどく落ち込む。もっと温かくありたかった、愛情を素直に受け止められる人間でありたかった。けれどわたしにはそれができない。母親が心配して泣く姿や声は、2km先の出来事で、わたしはカーペットに視点を落としたまま動くことができなかった。本物のわたしは月にいる。どんなに愛が注がれている最中であっても、心は常に月の上で、ひどく冷たい銀色の光の中、たったひとりきりなのだ。いつか、わたしの分身は月へと帰れるのだろうか。それとも、だれかが月まで迎えに来てくれるのだろうか。月面の上をひとり、なにをするでもなくただあてもなく歩きつづけるわたしめがけて。

お題「今日の出来事」