ぐるぐる雑記

ぬーん

角田光代『愛してるなんていうわけないだろ』、生の中で生きるか。生と死の間で生きるか。

この前シティーガールな女友達と神保町で古本を見て周っていたらその子がこんなことを言った。「わたし最近女性の作家の本探してるの、川上弘美とか。フォロワーさんが、女性の作家さんの方が死とか生とかを実直に見つめてる感じがするって言ってて」
この子はツイッターで1000人以上フォロワーがいて、彼らの世界にどっぷりハマってるもんだから、そういう言われるとすぐ信じてしまうのが玉にキズなのだが。。しかしその一言を意識しながら最近ふ~んと本を読んでる。もともと私は女性作家をあまり読まない。なんかあんまり好きじゃない。
 
愛してるなんていうわけないだろ (中公文庫)

愛してるなんていうわけないだろ (中公文庫)

 

 

一昨日、角田光代の『愛してるなんていうわけないだろ』というエッセイを読んだ(ホントは、『ジョンレノン対火星人』とかそっちが読みたかったんだけどなかった)。角田光代が早稲田を卒業して、22・3才のときに書いたほとんど恋愛のエッセイ。9割恋愛話。素直にこの人の恋愛に対するパワーの大きさに感嘆。「わたしには常に好きな人がいるんだけれど」なんてどの話にも書いてあって「すげえ」の一言である。そんなに恋愛しててよく身が持つな、と思う。
で、この本を読む時にも友人の「女性は死や生を見ている」という友人の言葉があたまの隅にふわふわ〜していて、読みながら考えていた。。
 
わたしは読書家からは程遠い、暇つぶしで本をちょろっと読むだけの人間なので、女性作家の金字塔は誰それで〜〜なんてのはまったく分からない。最近読んだ女性作者は、角田光代川上未映子、村上紗耶香、小川洋子とか。これが偏ってるのかどうかわからないけどまあ。で、逆に最近読んだ男性作者、村上春樹村上龍穂村弘長田弘谷川俊太郎など。たぶんこれも偏ってる。
 
彼らの文章とか小説から漂う雰囲気をふふ〜んと頭の中で感じていると、むしろわたしの感覚は「女性は生と死を見つめている」とは逆の立ち位置で、女性は生の中で生きていて、男性は生と死の狭間で生きているんじゃないか、と思った。
 
池の上に最近通っている美容室があって、そこの美容師さん(男)がよく奥さんの話とかをしてくれる。わたしがお母さんから積立貯金をもらった話をすると、「女性は、子供のために貯金とかできるんだよ。でも男はちがうね、ある分だけ使っちゃうから。お母さん、他にも結婚資金とかあるかもよ」と言われふむふむ。
すごーーーーーく言い古された、「男は狩りへ出て、女は村を守る」、といういかにも(これを全体として捉えたら怒られそう)なフレーズをふと思い出した。
男は命の危険を犯してでも外へ出ていく。冒険家は男の人が多いし、冒険に命を落とす人も多い。危険と分かっていながらも、生と死の狭間でふたつに触れ合うという体験をなぜ犯すんだろうなんて女のわたしは思ってしまう。冒険にかぎらず、ギャンブルなんかも男の人が圧倒的にハマってるんじゃないだろうか。ギャンブル、行き過ぎるとロシアンルーレットを始めるんじゃないかとわたしはヒヤヒヤする。そこまでは行かなくとも、自分が持っている金なり物を危険に犯して一か八かという体験は、生死を薄めたすごーく希薄になった狩り的体験なんじゃないかなと思う。なぜそこまでして命をかけたがるのだろう・・・。
村上春樹(男)の作品には多く、あの世的なものが出てくる。途中までしか読んでいないけれど、騎士団長殺しだってなんだか小さなおっさんというか、幽霊めいたものが出て来る。村上龍(男)のなんかもうハードすぎて何も言えまい、象徴としての死とかではないハードなやつが結構出てくる。池澤夏樹(男)も孤独に生きて、旅に出たりする。
なんだか全体的に哀しいのだ。そこはかとなく漂う、なにかの匂い。
 
角田光代(女)のエッセイのあとがきには、「どの話にはかならずこの女の子は悲しいと言っている。こんなに楽しいのに、100%の楽しさはいつか終わると心のどこかでわかっているから」みたいなことが書いてあった。でも彼女のエッセイは、それが生きていく中で起こる、この世界から離脱しない範囲の中での悲しさだった。明日も続く、その人生の中から今ある100%の楽しみが消えていくのが悲しい、というのが角田光代が22才のときに感じた悲しさだった。
 
「男性は肉体的に強いが精神的には弱く、女性はその逆」というのはまた誰が言い出したかよくわからないけど通説であって、個人的にはわたしの周りの男性たちは本当にそうだと思う。友人はわたしの男友達たちを「生きることにセンシティブすぎる人たち」と言った。生きることにセンシティブというのは、100%の生の中で生きている人達には生まれないものだと思う。それは生と死が擦れる境目に立ってはじめて生まれてしまうものなんじゃないか。彼らはとても弱いがとても男性的だとわたしは思うし、とても愛おしく同時に悲しい。
生きることのマイナスみたいなものを考えるとき、わたしの中では女と男の両方を意識する。明日も延々とつづく生きるに対する「しんどさ」なのか、生と死の擦れる音に耳をそばだてる「哀しみ」なのか。「しんどい」と「哀しい」はお互いの一部を共有しながらも、全てを共有できないほどの距離がある。男性作家の本を読むと、生きることのしんどさよりも、生きることの哀しみを強く意識する。
女性の方が太く強く、男性の方が細く儚い。
しかしとても逆説的でアイロニカルなのは、男性はか細く脆いのに、それでも自らを生と死が擦れる場所へと行くことを止められないことだ。ある意味破滅的で自滅的。だから女はいつも男に惹かれ、男はいつも女に惹かれるんだろう。究極的に、ふたつは分かり合えない。
女性作家はたしかに「生と死を見つめる」ことができるかもしれないなと、もはや一周周って思いはじめた。死んだ者と向き合う必要があるのは、皮肉にも生きている者であること、それは死者を抱えたまま生きなければならないという運命に人があるということ。死者を自分の中で他者として扱うか、それとも死者を自らのうちに取り込んで自分の死と同化させ、近すぎる隣人として生きていくか。それが女と男の態度の違いのように思えるときもある。男は基本的にストイックすぎて、見ていてい痛々しいのに憧れてしまう。
 
ツイッターの人が言うように、女性が生と死を見つめる作品を書くことができるのなら、それは女性がその状況の中で耳を澄ましている男性とは違うからだと思う。女性が書くのは、他者としての生死であって自己のうちの生死ではないんじゃないか。
 
耳をすませば生と死が擦れる音が聞こえる場所に行ってみたいな、と思いつつ。でもこれは完全なるわたしの推測だから本当の男の世界というのは違うんだろう。
ひとつ言えることがあるとしたら、男と女が全て分かりあうのは不可能なんだろうなということ。女同士でも難しいからね。でも完全に分かり合えてもツマンナイよね。