くるまのこと(ボロすぎるプジョー)
わたしは運転が好き。大学生の女子にしてはまあまあ珍しいんじゃないかと思う。ちなみに技術的にはとても下手だ。
なんで好きになったんだろうかと考えると、まず、車社会に暮らしているので運転の必要があることで必然的に車に触れるというのが前提にある。たまに大学にも車で行ったりしている。つぎに運転の楽しいオープンカーが2台家にあるおかげで、電車移動なんかより車で気持ちよく移動したいと思っている。実際には4台車があってどれも個性がある。トヨタの中型車と小型車、プジョーのオープンカー、シトロエンのオープンカー。
この中でも、プジョーのオープンカーが特にお気に入りだ。このオープンカー、長らくドイツに転勤したまま帰ってこない父親の友人からの貰い物で(ほんとにタダ)、やたらボロい。見た目も最近の高性能ぽいプジョーからは遠いし、かと言って一昔前のかわいいロゴが入ったレトロな車でもない。ただめっちゃボロい。20年位前のモデルで、色はプジョー的深い青。砂漠に行ったら映えるようなタイプの青だ。プジョーの青はとても素敵で、この車は見た目だけはとてもかわいい。問題は性能だ。
まず、後部座席の左側の窓がたまにしか上がらない。開けてしまうと最後、手で引っ張りながら閉めるボタンを押してやっとこさ閉まる。時たま閉まらないのでそのまま放置する。雨が降ると天気予報で見れば、20分くらい格闘しながら閉める。
さらに、トランクについていたプジョーのマークが、ある日トランクをバシンと閉めた衝撃でポロッと取れた。「・・・・」である。しばらく銀のマークは座席のポケットにしまわれていたが、マークが取れた痕があまりにも不格好すぎるので、ひとつきほどしてアロンアルファでくっつけた。
さらにさらに、たまにエンジンがつかない。一度なんか銀座のアップルの立体駐車場でエンジンがつかなくなった。焦る。後ろには駐車場に入りたい超高級そうなアウディーが、すごく迷惑そうにして待っている。キーをひねっても虚しい音だけが響いて一向にエンジンがかかる気配がない。焦った父親はボンネットを開けて、エンジンとキーの接続部分をスパナでガンガン叩く。なんとエンジンがかかった。そんなんでかかるのか。それ以来、エンジンがかからないと「またか」だし、かからなければかからないでボンネットを開けてエンジンの金具を叩けばいいから大丈夫、と謎の余裕を身に着けた。ちょっとやそっとではもう動揺しない。これがボロい車から得られるアクシデント耐性だ(全然ありがたくない)。
そんなプジョーだけれど、「フランス車の愛嬌ってかんじだよね」とか思っちゃう自分がいて怖い。これは個性これは個性、いや違う、故障だよ明らかに。
しかし最近、トヨタのプリウスを借りて運転したり、家にあたらしくシトロエンのDSという車がやってきたりして、いわゆる優等生的な車を運転する機会があってわたしはなんだか落胆している。まず最近の優等生車は、ハイブリッドなのだ。アクセルを踏むと、エンジン以外にエレクトロニックな何かしらのちからを感じる。なんと不純な。エンジンひとつがアナログにがんばるあのアクセルの踏み心地と加速具合が好きなわたしからすると、とても不純に感じる。さらに、壊れない。まったくもって壊れない。すごい。ていうか癖もあんまりない。これは良いことのはずなんだけれど、いや良いことだよ、なのに車に性格がない感じがしてなんだかがっくりしてしまう。
ここまで来るともはやプジョーが恋しい。窓は閉まらないし、マークは取れるし、エンジンが50%の確立でかからないんだけど、プジョーが恋しい。やたらキャラの濃い友達に悩まされていやいや付き合ってたくせに、後年になると思い出してまた味わってしまいたくなるタイプだ。完全にハマってしまっている。
そんなボロプジョーは毎年修理に出さなければ乗れず、毎回の修理でだいたい20万円ずつ吸い取っていく。今も近所の知り合いの修理工場でこつこつ直されて、ゴールデンウィーク明けに帰ってくるのを待っているところだ。しかし毎回修理屋さんに脅されるのは、部品がもう日本にはないこと。彼はボロボロなのに、直してあげることができない。悲しい。
ボロプジョーはアクセルを踏み込むと、2段階で加速してぐいっ、ぐいっとわたしを前に引っ張ってくれる。ハンドルがやたら重い(シトロエンの5倍は重い、はじめて運転したときは筋肉痛になった)けれど、それは車輪を動かしている感覚がすごくする。なんというか、わたしが操作しているぞというのが直接伝わってくる、とても良い車なのだ。だけれど最近の車は、なんだかバーチャル・リアリティみたいな運転の心地がして、あんまりおもしろくない。そういう車が増えていって、ボロい車の部品はどんどんなくなっていくと思うとすごく悲しい。お金も手もかかるけれど、とても良い奴なんだよ・・・。
最近は、マツダのユーノスロードスターが気になっている。最新モデルのロードスターもかっこいいのだけれど、色が・・・。わたしはユーノス時代の、あのモスグリーンが大好きなのです!ドイツの深く湿った森を思わせるあのグリーンは掛け値なしに素敵。でも残念。最近マツダは赤に凝ってて、緑なんてのは出してくれないのね。
いつか、大人になったらボロいユーノスロードスターを手に入れて、燃費の悪さとボロさを嘆きながら運転したいと思っています。効率化や、便利さが必ずしも喜びには繋がらないと、車のことを思うとしみじみと感じてしまう、そんな女子大生はちょっとウザいね。
(憧れのユーノス!あれ、青だ)
(ボロプジョーと同車種)
屋根の上にのぼってきゅうりをかじること
『ムーンライト』がつまらなかった…
1ヶ月以上前に、アカデミー賞の最有力候補とかなんやらでタイ語字幕のララランドを見たらつまんないのなんので開始40分で映画館を出てしまった。そのとき、「ララランドみたいなイチ候補なんかじゃなくて、最優秀賞だったムーンライトは絶対おもしろい…あきらめんなわたし…」と強く願い、ついに見ましたムーンライト。
「え、めっちゃつまんない。」
えええ。こんなに囃し立てられといて?いやいや納得いかないわ。ていうか正規料金の1500円(学生)払っちゃったよ。
…で、わたしなりになんでつまんなかったのか映画中に考えたんですが。
1.主題がわかりにくい
まず、母との関係っていうのがひとつ。次に、ゲイ体験を引きずることがひとつ。いやいや、主題2つとか辛いでしょ。ぼやけてます主題が。どっちかに絞った方がいいよ。しかも2つの主題が対してお互いに関係しあってない。独立した2つの話がぽろぽろとあっちこっちに散らばってて、映画的に流れがない。
2.人間ってこんな単純だっけ?
わかる、センチメンタルな言葉が大切なのはわかる。雰囲気って大事だもんね。でも、人間って「ごめんね」って言われて「いいよ」ってすぐ立ち直るような単純な存在だったっけ?言葉のやりとりはすごーく分かるんだけど、でも感情の動きが全然見えない。赦しまでの人間の葛藤が見えない。センチメンタルな映画なのに、人間の感情の動きが何からも汲み取れないよ。。
以上のふたつを踏まえまして、映画とはエンターテインメントだということをどうしても考えてしまう。一緒にいた人が、「クリント・イーストウッドだとどんなに重い内容も引き込んで最後まで見せてくれるのに」と言ってました。テーマの重要性も去ることながら、映画ってまず魅せてくれないと観れない、そうすると否応無しに1500円分の地獄がやってくる。もしくは120分の地獄。
そうするともう自己嫌悪。なんでこれに1500円も払っちゃったかな?アマゾンかwowowか地上波でよくなかったかな、とか色々考えてしまう。
表現は大事だよ、わかる。画のきれいさも大事、わかるわかる。でも魅せる技術が欲しかった。だって映画じゃんか。観客を引き連れていってほしかったんだけどなあ。
しかし、今回のアカデミー賞は「・・・?」な感じ。ていうか最近あんまりおもしろい映画に出会えないね。
もう信じられるのはアマゾンプライムだけだよ。
すべてが歪んで見える日
なんだろう、たまにあるんだけど、すべてが歪んで見える日。
街を歩く人の顔を見て吐きそうな気分になる。新宿駅で人の大群がごった返すなか、彼らの顔を見るとみんなひどく歪んで見える。
彼らの話す声音、言葉、すべてが腐っているように感じる。
いやだな、と思ってトイレに逃げる。トイレから出て、手を洗うと鏡に映る自分の顔が歪んでいるように見える。けれどわたしの歪みは、怯えに近い形をしている。
自分が歪んでいることを知っている。けれど純粋で美しいものに憧れている。自分の歪みが街を歩く人と同じものだと知る。自分はいつかもっと歪んで、汚い顔をして下品は言葉を吐くんだと確信をして、自分を滅亡させたくなる。
こんなもの。なぜ歪むことしか許されていないんだ。自分が全てにおいて醜くなっていく未来。わたしのすべてが、嫌悪する他者と同化する未来。助けてほしい。誰か、ここから出して。美しいものだけ見ていたい。
角田光代『愛してるなんていうわけないだろ』、生の中で生きるか。生と死の間で生きるか。
是枝裕和『映画を撮りながら考えたこと』高橋哲哉『記憶のエチカ』とか
読んでみたいな〜と思っていたら時間ができたので立ち読み。
「自分のことを語るのは嫌だけれど・・・」と言いながら、なんやかんや500頁くらいのやたら分厚い本。基本的には撮った映画を時系列的に並べて、そのときに考えていたことを是枝さんがつらつらと書くという本。
なんでこれを読もうかと思ったかと言うと、これまた違う本なのだけれど、高橋哲哉の『記憶のエチカ』という本を図書館でチラ読みしたのがきっかけ。
「「記憶」は「和解」や「赦し」を可能にするのか。戦争の記憶を哲学はどのように語ることができるのか。出来事から出発し、出来事をめぐって哲学するとはいかなることか。(…)安易な「物語」への回収を許さない体験・証言と向き合い、戦争の記憶とその語られざる「声」に耳を傾ける思考のあり方を問う。歴史修正主義や戦後責任、歴史認識を考えるときの必読書。」
このちょっと重めの本の中で、是枝監督が初期に出した「ワンダフルライフ」という映画に触れる。演技ではなくナマの語りは引力が強いという話題。
映画は、亡くなった人たちが天国に持っていく記憶を選ぶ話らしい。『記憶のエチカ』の中では、この映画で配役された、役者ではなく一般人の語りの強さに触れる。映画の中なのだけれど、一般人の出演者はセリフではなく、実際に生きてきた人生のなかから1番大切だと思う記憶を選んで話す。見てると、たしかに演技と実際はまったく違う。厚みが違う。どんなに演技の人がうまくとも、実際の体験としての話が持つ厚みには到底届かなかった。
これは余談なのだけれど、「生きることの厚み」がすごく滲み出ている絵を去年見た。あの有名なジクムント・フロイトの孫で、ルシアン・フロイト英国屈指の巨匠がいる。彼は自分の身のまわりのひとしか書かないのだけれど、ふだん一緒に生活しているからこそある観察力が絵から滲み出ていてすごい。それこそ、ここに書かれている「演技」なのに、「実物」ばりの生きてることの厚みが絵にある。
(東京ステーションギャラリーに展示されていた「少女の頭部」という作品。「どこが少女・・・?」と思うのだけれど、目の前に立つとまるでメデューサに睨まれたみたいに身動きがとれなくなってしまう。)
話もとに戻り、そのワンダフル・ライフをyoutubeでちょっと見たというのと(全編アップロードされている)、前にネットでこの本が出たときの作者インタビューで「学生はものを作るやつが偉いと思ってるけど、そうじゃなくて実際に生きてる人が1番偉いんだ」みたいな発言が載っていて、あー読みたいなと思っていたわけです。
まあそういうわけで『映画を撮りながら考えたこと』を読んでたら、「不在を抱えてどう生きるか」という章があった。たしかその章では「誰も知らない」という映画を取り上げていた。
「誰も知らない」はシングルマザーの母親に捨てられた子供4人が、暮らしながらもあるきっかけで兄妹を事故で殺してしまいそれを山奥に埋めてしまう話。結末がとくにあるわけではなく「暗い」と他のプロデューサーに言われながらも、変えずに撮りきったらしい。あたり前だけど生きるということは結末があるわけでもなく、ふわりふわりと前に進む。結末があるのは君の名はみたいな大箱カンドー映画だけなんじゃないかと思う。是枝監督の映画はいつも、少し前を向く、みたいなテンションがあって生きるだな〜と思う。
兄妹を間違えて殺してしまっても、母親が蒸発してしまっても、彼らは逃げずにひとつのところに住みつづけるのだという。人を殺したら逃げそうなのに。子供たちは母親の優しい思い出と、その場所で暮らした記憶があるから、そこを動かない。そのものはそこにいなくて、不在だけれど、そこで生きていく。
この映画をどこかで上映したとき?上映会を行ったとき?にその映画館の館長さんから吉野弘の「生命は」という詩を送られたという。「生命は / その中に欠如を抱いだき / それを他者から満たしてもらうのだ」。きっとあなたの映画のテーマにぴったりだから、と。
わたし自身、なんだか誰かの輪に入りたいよ〜と思いながら失敗し続けてきたな、と思った。他者から満たしてもらいたいのだけれど、それがうまくいかない。中学生からずっとそんな感じ。
ただ最近、卒論を進めていくうちに、そのテーマからどんどんと何かの輪に加えてもらっている感じがするのです。生きることとはなんだろう、自分のアイデンティティを社会に求められなかったらどうすればいいんだろう。当事者研究みたいなことをしているのだけれど、そのことによって自分の中の引っかかりがどんどん意識されていく。そうすると、いきなり読みたい本や見たい映画がわっ!と増えた。
今まで本も映画もなんだか好きだけれど、決定的に好きというわけではなかった。輪に入りたいけど入れない、輪の周りでとりあえずウロウロしている人だった。けれど、深く研究に関して考えると、どんどん世界がわたしに輪に加わっていいよ、と言ってくれる。読みたい本がつぎつぎ浮かんで、ひさしぶりに本屋さんがとても楽しい。
欠如を満たしてくれる相手というのは、必ずしも人じゃなくていい。わたしは人の輪がとても怖くて、対人関係がうまく結べない人だからこそ、誰かが書いた言葉や作品がわたしの欠如を少しでも満たしてくれるんじゃないか、そのための場所にやっと入れたんじゃないか、と。とてもうれしくて、生きることに前向きになれそうなここ最近なのです。
たくさん本が読みたい!詩を読みたい!映画を見たい!学問したい!
そんな気持ちになりました。
自分しかいない景色、灰野敬二、大瀬崎灯台
灰野敬二、はじめて知ったのだけど、この曲がとても良いね。
「良い曲だな」と思う基準はそれぞれだと思うのだけど、そもそも基準なんかなくて胸にグッとくる曲が良い曲なんだけれど、わたしには良い曲を聴くと明確な想像上の景色が見えるようになる。それはたとえば、ピンク色の夕方の草原に風が吹く景色だったり、はたまた真夏に屋根の下から眺めるギラギラと輝くアスファルトの蜃気楼だったりする。実際に見たことのない明確な景色が、わーっと包んで溢れてくる。
この曲を聴くと、自分しかいない景色が見えてくる。人は誰もいなくて、自分だけがいる。大きく広がる空と、目の前には海があり、そして草原。
高校の卒業旅行のことを思い出した。行き先は長崎県だった。カトリック系の学校に通っていたから、長崎で隠れキリシタンたちがどれだけがんばって、それなのに原爆を落とされて自分たちがいかに辛かったか、乗り越えたか、という話をひたすら聞かされるという苦行みたいな修学旅行が恒例行事だった。
長崎に行ったついでに、五島列島にも寄る。長崎から高速フェリーで1時間ほどの、海と山と崖以外、ほとんど何もない島だった。けれどエメラルドグリーンの海はばかみたいに澄んでいて、当時高校生だった馬鹿な女学生たちは感動のあまり思わず体操着のまま海に入り、そのあと先生たちにビショビショの体育着のままこっぴどく怒られるのだった。古典的に廊下で正座。でも記憶に残ってるのって、案外そういう景色だったりするよね。馬鹿で、無知で、けれどもアホみたいになんでも飛び込んでしまうあの時代は、病的で、だからこそ輝いて見える。
五島列島にはとても大きな岬がある。大瀬崎灯台という東シナ海に面した超大型の灯台で、光が届く距離は日本屈指だと言う。
ウィキペディアから借りた画像なのだけれど、遠い岬の先っちょにポツンと灯台が付いてるのが見える。なんとあの灯台にたどり着くまでには道路から1時間歩かなければならない。距離としては4キロメートルくらいだろうか?崖の高さも100メートルはあるだろう。
その日はすでに夕方で灯台まで行く時間もなく、道路周辺でバスから降りてウロウロしながら景色を眺める。
「あの海の向こうに中国があるんだよ」
バスガイドさんが教えてくれるも、残念だけれど微塵も見えなかった。見えたのは、金色に光る空と海。見える限り、全てが空と海。地球という星の、途方にくれるほど大きな質量を感じて少しぞっとした。遠くに見える巨大な崖の上に、ポツンと光る灯台も見えた。ゴマ粒みたいな灯台がひとつだけ。この巨大な東シナ海に面して、ただひとり海を渡る人々の安全のために一定のリズムで光続けていると思うと淋しい気持ちになった。
その灯台から崖を伝い、わたしたちがいる道路まで、緑色の草原が風になびき続けていた。まるでこっちは緑の海みたいに。
ポツンと光るゴマ粒みたいな灯台と、巨大な崖と、収まりきらない東シナ海の地平線。そしてその景色からは、修学旅行の同級生たちはみんな消えて、わたしだけになった。みんなの騒ぐ声も、姿も、消えて行く。聞こえるのは遠くで波が岩にぶつかる音と、海から吹いてくる強い風の音と、自分の口から出る息の音。わたしと、灯台と、東シナ海。淋しくて、でも美しい風景。
灰野敬二を聞いていたら、そんなことまで思い出してしまって夜も眠れなくなった!この!